武漢球
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経歴
若くして力強くて勇ましく、晋(後の後唐)の昭義軍節度使の李嗣昭に信任された。後唐の荘宗や明宗に仕えて、禁軍裨校となった。清泰3年(936年)、石敬瑭が契丹を援軍に引き入れて、末帝と敵対すると、漢球は石敬瑭に帰順した[1]。
後晋の天福元年(同年)、漢球は趙州刺史に任じられた。のちに入朝して奉国軍都指揮使となり、曹州刺史として出向した。開運元年(944年)、耀州団練使に転じた[1]。
天福12年(947年)、後漢の高祖劉知遠が開封府に入ると、漢球は洺州刺史に任じられた。漢球は眼病と老齢を理由に辞退しようとしたが、劉知遠は許さなかった。着任して任期が来ないうちに、再び眼病を理由に代任を求め、免官された。乾祐2年(949年)秋、開封府で死去した[1]。