武田左吉は、信長の側近として活動した家臣で、高木左吉と並び両左吉と呼ばれた人物である。近臣として度々戦功を挙げたことが『武家事紀』等に記されている。
『武家事紀』によれば、武田左吉は信長の近臣として活躍し、その子・坂井久蔵は六条合戦の後、信長が京都を出た際に山崎近辺で三好氏残党と戦って戦死したという。その後、左吉は土方彦三郎の弟を養子とし、宮内と号したと伝えられる。またもう一人の養子である武田喜太郎(下方貞清の息)は本能寺の変で戦死した。
天正2年(1574年)1月23日には、『津田宗久日記』により、塙直政の客人として津田宗及の茶会に招かれていたことが確認されており、山城国との関係を有していたことがわかる。また天正4年(1576年)5月24日には、『多聞院日記』において、塙直政戦死後に武田左橘以下三名が山城知行分の差し出しを徴収していることが記されている。
また天正6年(1578年)12月、摂津国で荒木村重が謀反を起こした際、馬廻衆として出動し、降伏後の高山右近が治めていた高槻城の在番を務めた 。
『信長公記』には、天正7年(1579年)の記事として「則、山城の御代官武田佐吉、林高兵衛、長坂助一召寄せられ」とあり、武田左吉が山城国における信長直轄領の代官であったことが明らかである。さらに天正8年(1580年)には、「やはた八幡宮御造営奉行」として、林高兵衛・長坂助一とともに、八幡宮(現・京都府八幡市)の造営奉行に任じられたことが記されている。
武田左吉の娘は、下方貞清に嫁いだ。