津田宗及

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生誕 津田 助五郎(春松?)
生年不明
墓地 南宗寺
別名 天信、幽更斎
つだ そうぎゅう
津田 宗及
津田宗及(『贈答百人一首』より)
生誕 津田 助五郎(春松?)
生年不明
死没 天正19年4月20日
1591年6月11日
墓地 南宗寺
別名 天信、幽更斎
著名な実績 天下三宗匠
活動拠点
子供 宗凡、江月宗玩
  • 津田宗達(父)
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津田 宗及(つだ そうぎゅう[注釈 1]、生年不詳 - 天正19年4月20日1591年6月11日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけてのの商人、茶人。津田家の屋号から、天王寺屋宗及とも呼ばれる[3]。宗及は法号で、名は助五郎、道号は天信、斎号は幽更斎[3]千利休今井宗久とともに茶湯の天下三宗匠[2]と称せられた。

堺南荘の豪商・天王寺屋の津田宗達1504年 - 1566年[4]の子として生まれた[3]武野宗瓦との交流が記録に残っている[3]ことなどから、武野紹鴎について茶道を学んだと考えられている[5]。宗達の記した『宗達他会記』永禄3年正月6日の段に初めて「助五」の名が現れる[6][注釈 2]

大徳寺住持の大林宗套にはを学び、後に天信の号を与えられる[3]

堺の大小路に居所を構える天王寺屋[8]は堺でも有力商人として知られた。宗及は永禄年間には石山本願寺の下間丹後の一族と通じ、次いで堺に勢力を張った三好政康を頼みとしていたが、やがて伸長してきた織田信長に接近[8]元亀3年(1572年)11月には信長が主催した京都妙覚寺での茶会に参加して接待を受けた[9][10]。元亀4年(1573年)2月3日には岐阜城で信長の名器の拝見を特に許され歓待されるまでになった。この茶会では信長自らが宗及に酌をした[10]天正6年(1578年)、信長が堺を来訪した際には、自邸に訪問を受けるなどし、重用された。

信長の家臣団の中でも、特に明智光秀とは茶会に顔を出すなどかなり接近していた[11]が、本能寺の変の後には山崎の戦いに臨む豊臣秀吉に陣中見舞いを行うという変心を見せた[12]。その後秀吉の信頼を得て[13]茶湯者八人衆の一人として数えられ、今井宗久、千利休とともに3,000石の知行を与えられた[14]黒田如水とも永く親交があり天正15年(1587年10月1日、豊臣秀吉が九州平定聚楽第の造営を記念して北野天満宮で開催した大茶湯(北野大茶湯)でも宗久、利休とともに茶会を行った。

天正19年(1591年)4月20日に死去。享年は不明だが、70前後とする説がある[15]。生前に父の菩提を弔うため、春屋宗園を開山として大通庵を創立し、宗及を含む津田家一族がここに葬られた。明治になって大通庵は廃寺となり、墓所のみが熊野町に残っていたが、第二次世界大戦後の区画整理で改葬され、宗及、宗達を含む5基の墓は堺市南宗寺に移された[16]

その他

茶会の記録(茶湯日記)として『宗及茶湯日記他会記』(1565年-1587年)、『宗及茶湯日記自会記』(1565年-1587年)や道具拝見記を記した。これらの記録は、天王寺屋の宗達、宗凡が記したものと合わせて『天王寺屋会記』と称され、当時の武将たちの関係や事件などを知る歴史的資料になっている。

子には、宗及に続いて『天王寺屋会記』を記した津田宗凡、大徳寺156世で大徳寺龍光院初世住持・江月宗玩がいる。娘の永薫(えいくん)は、宮中医として知られた半井家の一員で堺で開業していた半井云也に嫁した。

登場作品

映画
テレビドラマ
漫画
アニメ

脚注

参考文献

関連項目

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