段希堯

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段 希堯(だん きぎょう、878年 - 956年)は、五代十国時代官僚本貫懐州河内県[1][2]

若くして才能と度量があり、州県の官を歴任した。後唐天成年間、衛州録事参軍となった。石敬瑭興唐府に駐屯すると、希堯はその勤勉才幹を知られて推薦され、洺州録事参軍に転じた。石敬瑭が太原府に駐屯すると、希堯は召し出されて河東節度従事となった[3][2]清泰2年(935年)、石敬瑭が忻州に駐屯すると、ある日軍が急に万歳の喚呼を上げて騒動を起こしたため、石敬瑭はこれに当惑した。希堯が「兵はちょうど火のようなものです、止めなければ自らを焼きます」といって、騒動の首領を殺すよう求めたので、石敬瑭は夾馬都指揮使の李暉ら36人を斬って、騒動を止めさせた[4][5][2]。清泰3年(936年)、石敬瑭が太原府で起兵するにあたって、幕僚を召し出してこれを協議すると、希堯は遠慮せずに反対論を述べた。石敬瑭はかれの率直さを評価して、これを咎めなかった。石敬瑭が起兵すると、覇府の幕僚たちはみな高官に昇ったが、ひとり希堯は尚書郎の地位にとどまった[5][2]

後晋天福2年(937年)、希堯は兵部郎中から右諫議大夫となった[6]。ほどなく勅命を受けて呉越への使節をつとめた。船に乗って海上を航行したが、暴風が起こり、同行の船乗りや僕従たちはみな顔色を失った。希堯は「わたしのふだんの行いが良いのは天に見られている。おまえたちはわたしに任せておけば、心配はいらない」といい、言い終わるや暴風が止まったので、船旅を続けることができた。天福5年(940年)、帰国すると、萊州刺史検校尚書右僕射に任じられた。赴任しないうちに、懐州刺史に転じた。天福6年(941年)秋、棣州刺史となり、榷塩礬制置使を兼ねた。天福7年(942年)、少帝石重貴が即位すると、希堯は検校司空を加えられた[5][7]開運元年(944年)、戸部侍郎に任じられた[8]。開運2年(945年)、兵部侍郎に転じた[9]

後漢の天福12年(947年)、希堯は吏部侍郎となり、判東西両銓事をつとめた[5]乾祐元年(948年)、山陵副使をつとめた[10]後周広順元年(951年)、工部尚書に任じられた[11]顕徳元年(954年)、世宗柴栄が即位すると、希堯は礼部尚書に転じた。顕徳3年(956年)夏、洛陽で死去した。享年は79。太子少保の位を追贈された[5][12]

家族

  • 祖父:段約(定州司戸参軍、贈太常寺少卿)
  • 父:段昶(神山県令、贈太子少保)[1]
  • 子:段思恭(右諫議大夫)[13]

脚注

伝記資料

参考文献

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