貞元17年(801年)、剣南西川節度使の韋皋の校書郎になった。李吉甫の知るところとなり、また、李逢吉とも交遊があった。次第に官を累進して、翰林学士より祠部郎中に進んだ。
元和15年(820年)、中書侍郎・同中書門下平章事(宰相)になった。
長慶元年(821年)、剣南西川節度使になった。剣南西川の幕府では善政を敷き、諸蛮を支配下に置いた。翌年、雲南が唐朝の領内に侵攻した際も、使者を派遣して慰撫するのみで退けた。
以後、諸官を歴任し、大和6年(832年)、再度、剣南西川節度使になった。大和9年(835年)に死去した。没後に太尉を追贈された。文集30巻が存したとされるが、現在伝わっていない。