段志玄
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経歴
段偃師の子として生まれた。志玄は若いころから無頼で、しばしば法を犯した。隋の大業末年、父に従って太原に住み、李世民と面識をえた。
李淵が起兵すると、志玄は千人の兵士をもって従い、右領大都督府軍頭に任ぜられた。霍邑・絳郡を下し、永豊倉を攻めるにあたって、常に先鋒をつとめた。左光禄大夫に累進した。劉文静に従って潼関で屈突通をはばんだ。劉文静が桑顕和に襲撃されて、唐軍が潰乱すると、志玄は20騎を率いて敵中に入り、流れ矢を足に受けながらも、我慢して言わず、再三討ち入って敵を混乱させた。唐軍はこれに乗じて態勢を立て直し、敵を撃破した。屈突通が敗走すると、志玄は諸将とともに追撃してこれを捕らえた。功績により楽游府車騎将軍に任ぜられた。
王世充に対する征討に従い、深入りして、馬が倒れて、敵に捕らえられた。二騎に髻(もとどり)をつかまれて連行されたが、洛水を渡ろうとしたときに、志玄は突如暴れ出して、二人を振り落とし、その馬を奪って帰還した。竇建徳を破り、東都を平定すると、秦王府右二護軍に転じた。皇太子李建成が金や絹を見せて志玄を誘ったが、これを拒絶した。太宗(李世民)が即位すると、左驍衛大将軍に累進し、樊国公に封ぜられ、実封九百戸を受けた。詔により兵を率いて青海にいたり吐谷渾の牧馬を奪った。
長孫皇后の葬儀のとき、宇文士及とともに章武門の警備にあたった。太宗が夜に二将軍のところに使者を送ると、宇文士及は戸を開いて使者を入れたが、志玄は拒んで「軍門は夜には開くことができない」と言った。使者が手詔を示したが、志玄は「夜には真偽が判断できない」と、入れなかった。使者は朝までとどめられた。太宗は「真の将軍である。周亜夫もこれ以上であろうか」と感嘆して言った。
貞観11年(637年)、金州刺史に任ぜられ、褒国公に改封された。貞観12年(638年)、右衛大将軍に任ぜられた。貞観14年(640年)、鎮軍大将軍を加えられた。
貞観16年(642年)、病の床につくと、太宗はみずから見舞って、泣きながら「卿の子に五品の官を与えよう」と言った。志玄が亡くなると、太宗は慟哭した。輔国大将軍・揚州都督の位を追贈され、忠壮と諡され、昭陵に陪葬された。
評価
『旧唐書』:段志玄は矢を受けてなお声を上げず、ついに軍を安定させた。張公謹は亀卜を投じて計略を定め、志をもって皇太子を補佐した。いずれもいわゆる猛将・謀臣であり、機微を知り変化を見極める者たちである。唐の盛んなる隆盛は、実にこれらの人々に負うところが大きかったのである[1]。
呂温:褒国公は虎将であり、早くから時運に応じて馳せ参じた。太原にて唐の高祖に謁見し、一身を大唐に捧げることを誓った。剣を手にして意気昂然とし、風雲に乗じて騰躍するかのようであった。忠誠を積み重ね、広く仁徳を施し、その功勲は顕著なものとなった。後に軍旗を執って北伐し、周亜夫のごとく細柳の営に夜営した。軍中の規律は粛然として霜が凝るかのように静まり返り、営門は明け方まで固く閉ざされた。天子の使者が到来したが、車馬は軍門の外に停められた。軍心を安定させ威厳を執り行うことができ、これこそ真の将軍というにふさわしい。その気概は威武雄壮にして、武勇の名は広く伝えられた[2]。
後世の創作
話本
元代の話本『薛仁貴征遼事略』では、段志玄は段志賢と表記されている。段志賢は唐太宗の遼東征伐に従軍し、張士貴・劉君昴が薛仁貴を焼き殺してその戦功を横取りしようと火を放った際、真っ先に疑義を唱えた。そして一計を案じ、兵士に命じて旗の端を裂かせ、「遼の兵か、唐の将か」と書かせ、火を隔てて谷中へ射込ませた。これに対し薛仁貴は馬の脚を刺して血を出し、「唐兵薛仁貴」と記して動かぬ証拠とした。段志賢はすぐさま張士貴ら二人を捕らえ、太宗の御前へ連行して対質しようとしたが、その後、遼軍との交戦中に陣中で包囲されて重傷を負った。しかし、火の谷から脱出したばかりの薛仁貴が奮戦して救い出した[3]。
演義小説
明代小説『唐書志伝通俗演義』においても、段志玄は依然として段志賢と表記されている。段志賢は劉文静に従って潼関を守備した際、壮騎を率いて敵陣に駆け入り、十数人を斬り倒した。左腿に流れ矢を受けたが、痛みをこらえて戦い続け、桑顕和を大いに破った。李勣が天星にちなんで十二軍を命名するよう提案した際、寧州道は析威星にあやかって析威軍と名付けられ、段志賢がその指揮を執った。羊角山の戦いでは、疾駆して駆けつけた彼が単身で殿を務めて鄭軍を食い止め、李世民と丘行恭を安全に離脱させた。鄭将の晏明・洪彪を追撃中、誤って落とし穴に転落すると、敵の二本の槍が髻を直撃せんと突き出されたが、彼はにわかに躍り上がり、まず坑内で晏明を斬り伏せ、次いで馬首を返して洪彪を斬り捨てた。鄭軍はこれに驚き恐れた[4]。『隋唐両朝志伝』では、段志玄はやはり段志賢と表記されている。段志賢は楡林関の戦いにおいて伏兵を置き、陣を襲撃してきた遼将の白文龍を一槍で刺し殺し、薛仁貴と連携して白文虎を生け捕りにして楡林関を攻略した。摩天嶺の戦いでは、李思摩と共に遼将の高賢広の陣営を襲い、遼兵が炊事をしている隙に突撃し、一合で高賢広を馬下に突き殺してその首級を挙げて帰還した。鳳凰山の戦いでは、唐太宗が蓋蘇文に包囲されると、段志賢は自ら志願して出陣し、陣前で蓋蘇文を「主君を弑し貢物を奪った」と罵倒して、槍を構えて真っ直ぐに打ちかかったが、数合も戦わないうちに蓋蘇文の一斧で馬下に斬り落とされた[5]。
清代小説『説唐全伝』およびその続編『説唐後伝』では、段志玄は段志遠の名で登場し、「開唐四老将」の一人として馬三保・殷開山・劉弘基と並び称され、定国公に封じられ、武器は射苗槍である[6]。彼は唐太宗の北番親征に随行し、馬三保・殷開山ら老将と共に兵を率いて番営に突撃をかけ、戦功を挙げた。その後、唐太宗の遼東征討に従い、鳳凰山の戦いにおいて太宗が高麗の大将蓋蘇文の大軍に包囲されると、段志遠は真っ先に志願して山を下りて蓋蘇文を迎え撃った。彼は槍を横たえ馬を止めて陣前で名乗りを上げ、蓋蘇文が主君に逆らい乱を起こしたことを怒り叱り、槍を構えて真っ直ぐに打ちかかった。しかし年老いて力が衰えていたため、数合も戦わないうちに蓋蘇文の放った柳葉飛刀に射抜かれ、落馬して命を落とした[7]。
戯曲
清代の永恩による『漪園四種・五虎記』では、段志玄は段志元と表記され、「賽李広」と称される唐軍五虎将の一人である[注 1]。彼は秦王李世民に従って王世充を討伐し、東鄭の太子王元応との対陣において勇猛に斬り込み、孤軍深く敵陣へ入って無数の敵を殺傷したが、不覚にも敵の伏兵が仕掛けた絆馬索にかかって捕らえられた。敵は彼が途中で逃亡するのを防ぐため、わざわざ水に浸した生牛皮で全身を包み、さらに縄と鉄鎖で幾重にも巻きつけ、鄭王王世充に差し出して功績にしようとした。護送の途中、二人の鄭軍兵士が彼を降ろして休ませ、嘲弄の言葉を浴びせると、段志元は怒りに任せて力を振り絞り、まず片足を勢いよく突き出し、次いで両手を引き抜いて、兵士が押さえつけに使っていた棒を打ち落とし、戒めの縄を完全に振り解いた。彼は兵士の武器を奪い取って二人を返り討ちにし、その首級を斬り落とすと、さらに彼らの甲冑を剥ぎ取って衣冠を整え、馬を奪い、首級を携えて無事に唐の陣営へ帰還し、戦功を報告した[8]。
『曲海総目提要』に収録された戯曲『呼雷駁』では、段志賢と段志玄は兄弟である。段志玄は太原に至り、柴紹の推薦によって唐公の幕府に入り、李世民は彼を厚遇した。兄の段志賢を懐かしみ、休暇を願い出て帰省する途中、熊耳山に差しかかったところを山寨の頭目に待ち伏せされて捕らえられ、山へ連行された。李如圭の妹の李韞珠は、彼の佩用している宝剣を見てその由来を尋ねたが、段志玄はただちに怒声を上げて韞珠を叱りつけた。李韞珠は九絨絛と喪門剣の使い手で、百万の軍中にあって上将の首級を取ることなど児戯のようにやってのける女傑であり、みずから段志玄の縄目を解いて剣を返し、彼と立ち合って雌雄を決しようとした。両者は手合わせしたが、なかなか勝負がつかなかった。そこへ李如圭と斉国遠が割って入って仲裁し、段志玄を山寨に留め置き、韞珠を彼に娶わせることに決めた。やがて自宅へ帰り着くと、兄嫁の白氏と婢女の倩雲はかつて段志玄を誘惑して厳しく叱りとばされたことがあり、二人の女は彼に束縛されるのを恐れていた。羅士信が訪ねて来て、段志玄と名馬・呼雷駁を盗み出す相談を交わしたところ、倩雲がそれを盗み聞きし、密かに情夫に告げ、官に段志玄を訴え出た。そのため段志玄は役人に捕らえられて獄に繋がれた。その後、兄の段志賢が羅士信や程咬金らを率いて中秋の夜に獄を破り、牢役人の殷開山が内応して一行を導いた。英雄たちは揃って唐に帰順し、平陽公主が高祖に奏聞して、秦叔宝と斉国遠を仲人に立て、李韞珠を段志玄の妻として迎えさせた[9]。
