母たちの村
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| 母たちの村 | |
|---|---|
| Moolaadé | |
| 監督 | センベーヌ・ウスマン |
| 脚本 | センベーヌ・ウスマン |
| 製作 |
センベーヌ・ウスマン Thierry Lenouvel |
| 出演者 | ファトゥマタ・クリバリ |
| 音楽 | ボンカナ・マイガ |
| 撮影 | ドミニク・ジャンティ |
| 編集 | Abdellatif Raïss |
| 製作会社 | Filmi Doomireew |
| 配給 | アルシネテラン |
| 公開 |
|
| 上映時間 | 124分 |
| 製作国 |
セネガル ブルキナファソ モロッコ チュニジア カメルーン フランス |
| 言語 |
バンバラ語 フランス語 |
| 興行収入 | $434,553[1] |
『母たちの村』(ははたちのむら、原題:Moolaadé)は、2004年に公開されたセネガル・ブルキナファソ・モロッコ・チュニジア・カメルーン・フランスの合作映画。ブルキナファソの田舎の村ジェリッソで撮影され、エジプトからナイジェリアに至るまで、多くのアフリカ諸国で一般的に行われている女性器切除というテーマを扱っている。女性器切除に強く反対する内容となっており、村の女性コレが、女性器切除を「浄化」と呼びその必要性を信じる村人たちに反対されながらもモーラーデ(魔法の保護)を使って娘と少女たちを守る様子を描く。2007年に亡くなったセンベーヌ・ウスマンの遺作となった。
世界中の批評家から絶賛され、第57回カンヌ国際映画祭である視点部門を受賞した。
ストーリー
バンバラ族の暮らすブルギナファソのとある村。村にはシロアリ塚が点在し、巨大なハリネズミのような粘土製のモスクが建っている。
古来より、身を清めるために行われてきた女子割礼の儀式から6人の子供たちが逃げ出す。その内の4人は村民コレ・アルドの元に「モーラーデ(保護)」を求めに訪れる。女子割礼がもたらす悲劇を経験してきたコレは、かつて娘アムサトゥの割礼を拒否したように、家族たちの住居の門に縄をかけ、「モーラーデ」を始める。割礼の執行者たちは、逃げた子供たちを捕まえるためにコレの元に訪れが、「モーラーデ」になすすべなく引き返す。執行者たちは村の長老に相談する。長老は慣習をないがしろにするコレを非難しつつも、規則「モーラーデ」の違反が引き起こす天罰を恐れる。そこで、妻に対して絶対的な権力を持つ夫の立場を利用し、コレの夫シレに、コレに「モーラーデ」をやめさせるよう働きかけ、アムサトゥと4人の子供たちの割礼を企てる。
時を同じくして、アムサトゥの婚約者にして長老の息子イブラヒマ・ドレクがフランスから帰ってくる。イブラヒマは村の功労者として歓迎されるが、その最中、割礼から逃げた残りの2人の自殺が発覚する。村の男たちは割礼への否定的なメッセージを流すラジオを女たちから取り上げることを決め、さらに「モーラーデ」を始めることで割礼の恐怖を煽ったとし、子供2人の自殺の責任をコレに帰した。女たちから奪われたラジオが広場に山積みにされる。娯楽を奪われた女たちは団結し始める。イブラヒマの父親は、イブラヒマにアムサトゥとの婚約を破棄し、すでに女性器切除を受けている11歳の従妹と結婚するよう求める。イブラヒマはそのような行為は児童虐待だと認識し、それを拒否し、村人たちの言うことを無視してアマサトゥの家を訪れる。伝統によれば彼女が「不純な」身分であるにもかかわらず、彼は彼女を婚約者として認めた。海外で教育を受けたイブラヒマは、ラジオを取り上げたり割礼を受けてないアムサトゥとの結婚を許さない保守的な長老の言葉に難色を示すが、はっきりと異を唱えられずにいる。
コレは夫シレに「モーラーデ」をやめるよう説かれるが、コレは受け入れない。シレの兄アマト・バチリは見かねてシレに鞭を渡し、鞭打ちによってコレに受け入れさせようとする。シレは躊躇いながらもアマトに押し立てられ、広場でコレに鞭打ちを始める。しかし、何度打たれようともコレは受け入れず、途中、村に物品を売りに来ていた「傭兵」と呼ばれる国連平和軍の元軍人の男が止めに入る。鞭打ちは終わり、コレは保護されるが、止めに入った元軍人は処刑される。また、鞭打ちの最中に保護されていた子供の1人ジャトゥが母親に連れ去られ、割礼を受けるも死んでしまう。
翌日、広場に集められたラジオが焼かれる。そこに女たちが集まり、割礼の執行者たちにナイフを捨てさせ、二度と割礼をさせないと長老たちに宣言する。長老たちは女たちの中心人物であるコレを罵倒するが、シレは妻コレの行動をついに肯定し、自分を裏切り者と叱責する兄から去る。イブラヒマも父親に立ち向かい、アムサトゥと結婚すると宣言し、勘当すると脅す父親(イブラヒマが一家の大黒柱であることを考えると、これは実に愚かな行為である)に対し「暴君が威張る時代はもう終わった」と言い放つ。映画は、燃えるラジオの煙で幕を閉じるが、これは声を上げることと言論の抑圧の両方を物語っている。