比企三郎
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生涯
建久10年(1199年)、源頼家が十三人の合議制に反発し、狼藉不問などの特権を与えた取次役の5人に弟の比企時員や小笠原長経、中野能成らとともに選ばれている[1][9]。正治元年(1199年)、頼家が鎌倉不在の御家人・安達景盛の妾を奪った際には、小笠原長経、中野能成、和田朝盛、細野四郎とともに加担。後に景盛が訴えを起こしたため、頼家より他の4人らとともに景盛追討を命じられた。この争いは頼家生母・北条政子の奔走によって回避されたが、後に政子は三郎ら頼家側近を「邪侫之属」と非難している[10]。その後も頼家の近臣として名が見られるが[4]、建仁3年(1203年)に比企能員の変が起こると時員ら一族とともに小御所に籠もり、北条氏方に攻められて討死した[2][3][7][11]。