比企余一兵衛尉 From Wikipedia, the free encyclopedia 時代 鎌倉時代前期生誕 不明死没 建仁3年9月2日(1203年10月15日)[1][2]別名 宗朝?[3] 凡例比企余一兵衛尉時代 鎌倉時代前期生誕 不明死没 建仁3年9月2日(1203年10月15日)[1][2]別名 宗朝?[3]官位 兵衛尉[4]主君 源頼家氏族 比企氏父母 父:比企能員[1][5]兄弟 余一兵衛尉、三郎、時員、五郎、能本、若狭局、笠原親景妻、中山為重妻、糟屋有季妻[1][6]テンプレートを表示 比企 余一兵衛尉(ひき よいちひょうえのじょう)は、鎌倉時代前期の比企一族の武士。鎌倉幕府有力御家人・比企能員の嫡男[1][6]。余一は通称、兵衛尉は官位で、実名は不詳だが宗朝と推測する説もある[3][注 1]。 正治2年(1200年)1月、梶原景時の変において梶原景時一族が関東を離れて西上しようとしているとの知らせを受けた幕府の命で、姉妹婿の糟屋有季や三浦義村、工藤行光らとともに追討軍として派遣されている[4]。討伐軍が追いつく以前に景時らは駿河国で同地の武士によって討たれたが、戦後には有季とともに恩賞に預かっている[8]。建仁3年(1203年)9月2日の比企能員の変では、源頼家の子で甥にあたる一幡を擁して一族とともに小御所に籠もったが、北条氏方の軍勢の攻撃を受ける。一幡や弟妹らは御所内で戦死し[注 2]、自身は女装して逃走を図ったものの加藤景廉に討たれ、梟首となった[1][5][6]。 脚注 [脚注の使い方] 注釈 ↑ 『北條九代記』『保暦間記』の建仁3年(1203年)9月2日条には比企能員の子息として宗朝という人物のみが出てくる[7]が、能員の子息のうちどの人物に該当するかは不明。 ↑ 『愚管抄』には、軍勢が押し寄せる前に一幡は母が抱いて逃げ延びたが、11月3日になって捕らえられ北条義時の郎党の藤馬という者に刺し殺されたとある。 出典 1 2 3 4 5 菊池 1990. ↑ 『大日本史料』4-7, pp. 895–896. 1 2 藤本頼人『源頼家とその時代 二代目鎌倉殿と宿老たち』吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー〉、2023年。 1 2 『大日本史料』4-6, p. 440. 1 2 『大日本史料』4-7, p. 896. 1 2 3 『東松山市の歴史』, pp. 366. ↑ 『大日本史料』4-6, p. 104. ↑ 『大日本史料』4-6, p. 469. 参考文献 『大日本史料 第四編』 6巻、東京大学出版会、1968年。ISBN 9784130901567。 『大日本史料 第四編』 7巻、東京大学出版会、1970年。ISBN 9784130901574。 東松山市市史編さん課 編『東松山市の歴史』 上、東松山市、1985年。 菊池紳一 著「比企氏の乱」、国史大辞典編集委員会 編『国史大辞典』 11巻、吉川弘文館、1990年。ISBN 9784642005111。 Related Articles