比嘉春潮

From Wikipedia, the free encyclopedia

生誕 (1883-01-09) 1883年1月9日
日本の旗 日本沖縄県中頭郡西原間切翁長
死没 1977年11月1日(1977-11-01)(94歳没)
日本の旗 日本東京都杉並区荻窪
研究分野 沖縄学民俗学歴史学沖縄史
比嘉 春潮
ひが しゅんちょう
人物情報
生誕 (1883-01-09) 1883年1月9日
日本の旗 日本沖縄県中頭郡西原間切翁長
死没 1977年11月1日(1977-11-01)(94歳没)
日本の旗 日本東京都杉並区荻窪
出身校 沖縄師範学校
学問
研究分野 沖縄学民俗学歴史学沖縄史
研究機関 沖縄文化協会、沖縄歴史研究会
主要な作品 『沖縄の歴史』
主な受賞歴 沖縄タイムス文化賞、沖縄県文化功労者
テンプレートを表示

比嘉 春潮(ひが しゅんちょう、1883年明治16年)1月9日 - 1977年昭和52年)11月1日[1])は、沖縄県西原町出身の沖縄学民俗学沖縄史の研究者、社会運動家、エスペランティスト

本名は「春朝」であるが、「源為朝の系統か」と聞かれるのが嫌で、雅号「春潮」を本名のように使ったとされる[2]

エスペラント運動

沖縄県中頭郡西原間切翁長(現在の西原町)出身[1]。駱氏支流三世・駱氏比嘉家(系祖・駱国用、玉城筑登之親雲上春紀)の後裔。系祖・春紀の次女・真鍋樽金は、尚質王の妻(宮城阿護母志良礼、号・恵室)となり、五男・尚弘徳(勝連御殿元祖)を産んだ。

1906年(明治39)に沖縄師範学校卒業後、小学校教諭となり、1914年(大正3)には玉城小学校校長となったが[1]1910年(明治43)に伊波普猷と知り合って彼が唱える「沖縄学」に関心を抱くようになる。後に河上肇とも知り合って社会主義にも関心を抱くようになる[3]

1918年(大正7)に教諭を辞めて「沖縄毎日新聞」「沖縄朝日新聞」の記者となり翌年には沖縄県吏となるが、船上で柳田國男と知り合い、1923年(大正12)県庁を辞して上京、改造社に入社、出版部主任となり[4]、当時の花形作家芥川龍之介里見弴らと知り合った[5]。その傍ら柳田の下で民俗学を研究、それを元に自らの沖縄学研究を深め、伊波らと共に南島談話会に参加した[1]

戦後は1945年(昭和20)12月、沖縄人連盟の発起人の一人となるとともに、他の在京の沖縄出身知識人とともに、1947年(昭和22)に沖縄文化協会を結成して一貫して沖縄学の振興と沖縄返還の実現のための活動に努め[1][6]1955年(昭和30)から1958年(昭和33)に『沖縄タイムス』紙連載の「沖縄民族の歴史」を補筆・改題して、 1959年(昭和34)『沖縄の歴史』を刊行した[7]

1977年(昭和42)11月1日東京都杉並区荻窪で肺炎のため死去[5]。墓所は多磨霊園[8]

エスペラントとは師範学校時代に出会い、仲原善忠のすすめにより本格的に学習。日本エスペラント協会(日本エスペラント学会の前に存在した運動団体)に入会する。1920年代、中立主義によらず労働者のためのエスペラント運動を唱えるSAT(国民性なき全世界協会)の影響を受け、プロレタリア・エスペラント運動の中心人物のひとりとなった。戦時中、時局迎合の姿勢を強めていく日本エスペラント学会を「ぼくの考えているエスペラント運動ではない」として脱会[9]。戦後には、ベトナム戦争に抗議して焼身自殺したエスペランチスト・由比忠之進の追悼集会の発起人となった。

関東大震災での受難

1923年(大正12)9月に起きた関東大震災の際には、淀橋(現・新宿区)に住んでいた[10]。震災後、数日経った夜、自警団が自宅を訪問し、「朝鮮人だろう」「ちがう」「ことばが少しちがうぞ」「僕は沖縄の者だから君たちの東京弁とはちがうはずじゃないか」と押し問答になった[11][12]

身の危険を感じ、淀橋署に奄美大島出身の巡査がいたことから、警察で白黒つけようと持ちかける[13]。しかし、連れて行かれたのは近所の交番で、ここでも同じやりとりを繰り返しているうちに、日本刀を持った自警団の一人が「ええ、面倒くさい。やっちまえ」と怒鳴った[14][12]。それでも何とか淀橋署に行くことになり、無事で済んだ[15][12]

また、行方が分からなくなっていた甥の春汀は、「朝鮮人だ」と叫ぶ自警団にこん棒で殴られ、頭に包帯を巻き、血糊をこびりつかせた状態で飯田橋署に留置されていた[16][12]

年譜

  • 1883年(明治16)1月9日 - 沖縄県中頭郡西原間切翁長生まれ[1]
  • 1906年(明治39) - 沖縄にて小学校教諭となる[1]
  • 1915年(大正4) - 玉城小学校校長就任[17]
  • 1917年(大正6) - 那覇の松山小学校校長に転任[17]。那覇および首里にてエスペラント講習会を指導[18]
  • 1918年(大正7) - 教諭退職、『沖縄毎日新聞』『沖縄朝日新聞』記者になる[1]
  • 1919年(大正8) - 沖縄県庁に入庁[1]
  • 1923年(大正12) - 県庁を辞して、東京にて改造社に編集者として就職[1]
  • 1932年(昭和7) - 改造社を退社[19]
  • 1935年(昭和10) - 改造社に復職[20]
  • 1939年(昭和14) - 比嘉は金城朝永親泊康永ら9名で「ナインクラブ」結成[21]
  • 1940年(昭和15) - 比嘉・金城ら7名で、沖縄研究を目的とする「七星会」結成[21]
  • 1944年(昭和19) - 再び改造社を退社、小山書店へ入社[22]
  • 1945年(昭和20)12月 - 沖縄人連盟の発起人の一人となる[1]
  • 1947年(昭和22) - 「沖縄文化協会」設立、仲原善忠宮良當壯島袋盛敏島袋源七崎浜秀明らが参加[22]
  • 1950年(昭和25) - 小山書店を退社し、沖縄研究に専念[22]
  • 1950年(昭和25)~1951年(昭和26) - 『沖縄文化』誌に「沖縄の農民生活」という論考発表[22]
  • 1955年(昭和30) - 「沖縄歴史研究会」発足[5]
  • 1955年(昭和30)~1958年(昭和33) - 『沖縄タイムス』紙に「沖縄民族の歴史」を219 回にわたって連載[7]
  • 1959年(昭和34) - 「沖縄民族の歴史」を補筆改題して『沖縄の歴史』刊行[7]
  • 1977年(昭和52)11月1日 - 死去[1]

受賞・栄典

その他

  • 1979年(昭和54)、沖縄文化協会は沖縄文化協会賞比嘉春潮賞を設置(比嘉春潮賞は歴史学等が対象)[23]
  • 1983年(昭和58)7月、夫人の比嘉栄子から蔵書・資料ノート・草稿類5,900冊余と日誌・書簡類などが沖縄県立図書館に寄贈され、「比嘉春潮文庫」として整備された[24]

著書

共著

出典

参考文献

外部リンク

Related Articles

Wikiwand AI