毛勝
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生涯
安泰の子として生まれた。安泰は元の右丞相の別卜花(ベク・ブカ)の息子で、叔父には元末明初の重臣蛮子(マンジ)がいた[1]。安泰の兄で毛勝からは伯父にあたる那海(ノガイ)が1388年(洪武21年)のブイル・ノールの戦いを経て明に帰順し、靖難の変の功績で都指揮同知に上ったが、嗣子がなく、安泰が後を嗣いで羽林前衛指揮使となった[1]。安泰は1388年(永楽9年)に「病故」したとされるが、実は同年中にモンゴル高原に送り返された「アルクタイの同産兄弟の阿力台」と同一人物と見る説がある[2]。このような関係を反映してか、諸史料で毛勝は「アルクタイの親族である」と記述されることが多い[1]。
『明宣宗実録』によると福寿は1431年(宣徳6年)7月にアルクタイから明への使者として派遣された後、慰留されて同年9月に明朝から都指揮使の地位を授けられたという[2]。恐らく、福寿は父の安泰=阿力台とともに永楽9年にモンゴル高原に移ったが、情勢の変化を受けて改めて明朝に仕えるようになったものとみられる[2]。なお、安泰が永楽9年に不在となって以後は長男の毛済がその地位を嗣いでいたが子がなかったため、福寿を地位を継承しなければならないという事情もあったようである[2]。
1442年(正統7年)、福寿は麓川の乱を討った功績により、都督僉事に抜擢された。靖遠伯王驥が舎人を率いる在京番を選抜して、雲南の苗族の乱を討捕させるよう求めた。そこで福寿は都督の冉保とともに600人を率いて赴くよう命じられた。ほどなく参将として麓川の乱を討った。1444年(正統9年)、都督同知に進んだ。
1449年(正統14年)夏、オイラトのエセン太師が明への侵攻を図ると、福寿は平郷伯陳懐らとともに明軍3万を率いて大同に駐屯した。8月、陳懐は土木堡でオイラト軍に包囲されて戦没したが、福寿は脱出して順天府に帰還した。9月、武清伯石亨の推薦により、福寿は左都督に進み、三千営の操練を監督した。10月、エセンが順天府に迫ると、福寿は広寧門を守り、オイラト軍を撃退した。兵を率いて西直門の外に出て、都督の孫鏜を包囲から救った。都督の武興が広寧門で戦没すると、福寿は右僉都御史の王竑とともに広寧門を救援した。オイラト軍が撤退をはじめると、福寿は紫荊関まで追撃した。
1450年(景泰元年)、福寿は左副総兵として河間府・東昌府のモンゴル人降兵を率いて貴州の苗族の反乱を討った。反乱軍の首領の韋同烈は香炉山に拠っており、福寿は総兵の梁珤や右副総兵の方瑛らとともに総督の王来の指揮に従って分進合撃した。福寿は重安江から進み、反乱軍を撃破した。官軍が山下で合流すると、四面を包囲して反乱軍を攻め立てた。反乱軍は窮して韋同烈を縛って降伏した。
1452年(景泰3年)3月、福寿は湖広の巴馬の苗族の乱を討ち、20あまりの寨を攻略し、反乱の首領の呉奉先ら140人を捕らえ、1000人あまりを斬首した。1454年(景泰5年)、南寧伯に封じられ、世券を与えられた。1455年(景泰6年)、福寿は上疏して名を勝と改めた。騰衝に移駐した。芒市禦夷長官司長官の放定正が麓川の思任発の遺児の思卜発と結んで反乱を起こすと、毛勝は策を設けてこれを捕らえた。
巡按雲南監察御史の牟俸が毛勝の横暴不法数十事を弾劾し、毛勝の出自を貶し、外夷と通敵していると非難した。牟俸の告発は事実ではないとされ、不問に付された。1458年(天順2年)8月14日、毛勝は死去した。享年は58。南寧侯の位を追贈された。諡は荘毅といった。
子の毛栄が南寧伯の爵位を嗣いだ。