バヤン・テムル

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バヤン・テムル(Bayan temür、? - 1454年)は、15世紀中後期のアスト部の統治者。漢文史料上では伯顔帖木児(bǎiyán tièmùér)と表記される。

土木の変によってオイラトの捕虜となった明の英宗を預かり、その世話を見た人物として知られる。各種モンゴル年代記で言及される、エセン・サマイ(Esen samai)もしくはアリマン丞相(Aliman čingsang)という人物と同一人物ではないかとする説がある。

「土木の変後、明の英宗を預かった人物」については、漢文史料・モンゴル年代記双方で特筆されるものの、史料間で人名が一致しない。『アルタン・トプチ』は「ヨンシエブのエセン・サマイ(Esen samai)」 、『蒙古源流』では「アルクタイ太師の子のアリマン丞相(Aliman Čingsag)」とされるが、『明実録』などの漢文史料では一貫して「伯顔帖木児(バヤン・テムル/Bayan temür)」として言及される。このうち、「アリマン」という人名については『明孝宗実録』弘治元年条に「阿里麻」という類似した人名が見える。弘治元年の人物がアルクタイの息子世代ではありえないから、恐らくは「アルクタイの孫」とすべき所を誤って「息子」としたものと推定される。宝音徳力根は、「アルクタイの息子」が「バヤン・テムル」もしく「エセン・サマイ」で、その息子が「アリマン丞相」であった、と解釈している。

生涯

平章時代

漢文史料上では、正統4年(1439年)正月にオイラトの「平章」の一人として名が挙げられるのが、最初の登場となる[1]。同じく正統5年(1440年[2]・正統8年(1443年[3]・正統10年(1445年[4]でも「平章バヤン・テムル(伯顔帖木児)」として名が挙げられている。

しかしここからバヤン・テムルは地位が昇格したようで、土木の変の起こった正統14年(1449年)時からは主に「迭知院(特知院)」という称号で呼ばれるようになる[5][6][7]。「迭(dié)」とは「二番目」を意味するモンゴル語дэдの音写で、「デド知院」とは「四階級に分かれる「知院」の中で、二番目の地位」を意味する称号と考えられている[7]。なお、「第一知院」は「アカラク(Aqalaqu)知院」と表記され、この時期にはボディ・ダルマ(Bodi darma)がこれを称していた[8]

英宗を預かる

正統14年8月14日に土木の変が起こった際、最初に明の英宗を発見したのがバヤン・テムルであり、この縁によってバヤン・テムルが英宗を預かることとなる[9]。このため、この時に英宗と行動を共にした者達が遺した『正統臨戎録』・『北征事蹟』といった記録ではバヤン・テムルについて多くの記述がある。

『正統臨戎録』によると、土木の変の直後にエセンが英宗の処遇を決めるための会議を招集した際、まず乃公なる者が「大明皇帝は我ら大元皇帝の讐人である」と述べ、これに報復すべきと論じた[10]。これに対し、英宗を保護すべきと主張したのがバヤン・テムルで、バヤン・テムルは乃公の顔面を二度殴打した上、英宗を帰還させもう一度玉座に即かせる方が万世の評判を得られると主張したという[10]。そこでエセンはバヤン・テムルの意見を認め、またバヤン・テムルに英宗の面倒を見るよう命じた[11][12]。これ以後、バヤン・テムルは英宗が明朝に帰還するまで基本的に行動をともにすることとなる。

そもそもオイラト軍にとっては英宗は予想外の戦果であったことからすぐに持て余し、エセンは英宗の返還を含めた交渉を行うため8月下旬に宣府・大同辺外に接近した[13]。ところが明朝側では于謙らによって景泰帝が新たに擁立されており、8月28日には英宗自らがエセンが早期送還・早期賠償の意図を持っていることを伝えてきたにも関わらず、于謙・景泰帝らはエセンと全く交渉を持とうとしなかった[14]

9月を通じてエセンは明側と英宗の返還交渉を行おうとして果たせず、9月28日には遂に景泰帝らに「和意はない」と判断し、10月初頭に武力で以て要求を通すべくバヤン・テムルらとともに北京に接近した[15]。北京を包囲したオイラト軍は城内に使者を派遣するも、最初の使者は殺され、二回目の使者も追い返されてしまい、使者のなり手がいなくなってしまった[16]。そこで英宗の身近に使える楊銘(『正統臨戎録』の撰者)が10月13日に明朝に派遣される使者に名乗り出た時、英宗とともにバヤン・テムルもこれを憐れんで慰留したという[17]。結局、10月14日に楊銘の父の楊只らが三度目の使者として派遣され、これを受けて明側は初めて王復・趙栄らを使者としてエセンの下に派遣した。しかし、王復・趙栄らは本来地位が低い者に臨時で高い肩書きを与えた使者であり、これを向かえたバヤン・テムルは「どうして大頭目が来ないで、おまえたち小官人を来させたのか」と語ったという[18][19][20]

このような明側の対応を受けてエセンは財物と引き換えに英宗を送り返すことを諦め、10月16日には早くも引き上げをはじめた[21]。引き上げ途中でエセンとバヤン・テムルはそれぞれ景泰帝からの書簡を受け取ったが、内容としては「武装解除した20人以下の随行であれば英宗の返還を受け入れる」というもので、緊迫した情勢下では実質的に不可能な内容であった[21]。北京を離れたモンゴル軍は易州紫荊関陽和関・猫児荘(現在の豊鎮市方面)を経て、10月23日には威寧海子(モンゴル名キル・ノール、現在の黄児海)に到着した[22]。威寧海子から二日後に「達子営」に到達した一行は装備を整えた上で更に西北方面に進み、やがて10月26日に現在の四子王旗の小黄河(shira müren)の東に位置するバヤン・テムルの家小(家族)の営内に到着した[23][24]。ここでは、バヤン・テムルの妻のアカダライ・アガの世話を受け、更に西北のエセンの本拠に向かって出発することとなった[25][26]。北京からここまでの行程はかなりの強行軍であるが、これは明軍との敵対関係が続いており、国境線上での行動に不安があったためであろう[27]

バヤン・テムルの領地まで着いたことでオイラト軍は足を緩めたようで、それから約1カ月経った11月17日にようやく現在のフフホト市方面の蘇武廟に移動し、この地に約40日滞在して年を越すこととなった[28]。この間、エセンはしばしば英宗を招いた宴会を催し、これに同席するバヤン・テムルやアバボルギは英宗に酒を差し上げたという[28]

英宗の返還

9月にオイラト軍が北上して以後、オイラトと明朝は依然として没交渉状態であり、各地で小競り合いが頻発していた。この頃、明朝朝廷側ではバヤン・テムルがエセンに次ぐオイラトの首魁とみなされており、景泰元年(1450年)2月にはエセンらを殺害した者に報奨金を出すという布告が出されている[29]。これによると、エセンを殺害した者には最高額の賞銀5万両・金1万両・国公太師号を授けられることとなっており、バヤン・テムルを殺害した者にはこれに次ぐ賞銀2万両・金1千両・侯爵への封があてられていた[30][29]

オイラト・明の交渉は、同年5月にアラク知院が参政のオルジェイ・トゴン(完者脱歓)を派遣したことによって再開した。景泰帝は従来通りアラク知院からの和議の申出を断ったが、これを切っ掛けとして王直が和議を受け入れるべきことを表明し、明朝朝廷内には講和推進派と講和反対派の対立が生じた[31]。これに並行し、エセンは再びバヤン・テムルの護送する英宗を引き連れて大同に接近し、6月14日は英宗自らが大同の城門前まで至ったが、この時大同を守る郭登が英宗を奪い返そうとする事件が起こった[32]。この時、バヤン・テムルは先に使者として大同を訪れていた楊銘がこの事件を企んだのではないかと疑ったが、楊銘は全く知らなかったと弁明し、バヤン・テムルの部下のボライの取りなしを得て処刑されなかったという[33][34]。なお、ここで登場するボライは後にバヤン・テムルの勢力を継承することとなり、モンゴル年代記でも「ハラチンのボライ」として言及される人物である。

更に6月26日、アラク知院は同じ使者を明朝に派遣し、これを受けて王直ら講和推進派が使者派遣を主張、一貫して講和反対を主張してきた于謙らも妥協してエセンへの使者を認めざるを得なくなった[35]。7月11日に明使に面会したエセンは8月5日という明確な期日をつけて英宗を迎え入れるよう強く要求し、さらに明朝朝廷内でも王直ら講和推進派の声が益々大きくなっていたこともあり、英宗の返還は急速に進行するようになった[36]。同月中に再びエセンの下に使者の楊善が派遣され、英宗を迎え入れるための会談を行ったが、この場にバヤン・テムルも同席している[37]。会談中、帰還した英宗が復位することはできない事に話しが及ぶと、バヤン・テムルは英宗の復位が認められるまで楊善を拘留すべきではないかと発言したが、エセンはここで英宗の返還を遅らせれば約束を違えることになると述べ、従わなかったとの逸話がある[37]

英宗の帰還が決まると、8月1日にエセンとバヤン・テムルを交え、別離の前の宴が催された[38]。英宗が北京に向かって旅立つと、エセンは出発から半日ほどは同行したものの途中で別れ、バヤン・テムルとその部下が英宗の護送を担った[39]。バヤン・テムルらは野狐嶺に至った所で英宗と別れることとなり、改めて馬匹を献上した上、一斉に礼拝して英宗に別れを告げたという[39]

英宗が明朝に戻った後、バヤン・テムルに関する明側の記録は減少するが、景泰2年(1451年)正月の記録では王子エセン・モンケに次いで[40]、景泰3年(1452年)11月のオイラトからの使者派遣ではエセン(瓦剌太師也先)に次いでバヤン・テムル(知院伯顔帖木児)の名が挙げられており、高い地位を保持していたことが窺える[41]

晩年・没後

しかし、上記のようにエセンから重用されていたことが仇となり、アラク・テムル(阿剌知院)がエセンに反乱を起した時、バヤン・テムルはエセンともに殺されることとなってしまった。『明英宗実録』景泰5年10月甲午条によると、息子を謀殺されたアラク・テムルはエセンを討つべく3万の兵を率いて出陣し、先に使者を派遣してエセンの罪を糾弾した。これを受けてエセンは決戦が翌日に行われるものと思い、腹心の部下であるバヤン・テムルやボライらと協議していたところ、元々はアラクの配下であった曲卜剌禿僉院・禿革帖児掌判・阿麻火者学士らがゲルの中に入り、エセンとバヤン・テムルらを刺殺してしまった[42][43]

なお、1455年(景泰6年)5月にはバヤン・テムルがエセンの長男のホルフダスン楚王とともに干趕河に逃れていたとの記録があるが、これは疑わしい[44]。この記述は恐らくはバヤン・テムルとアラク・テムルを混同したもので、アラク・テムルは「デド・ノヤン」と呼ばれたとの記録があることから、「デド知院」と呼ばれたバヤン・テムルと混同されたのではないかと推測されている。

1457年(景泰8年)2月、英宗は「奪門の変」を経て復位し、天順元年と改元した。即位直後の2月27日、英宗はかつて虜囚の身であった時に世話を見てくれたバヤン・テムルの妻のアカダライ・アガ(阿哈塔来阿哈)に綵幣を賜ったとの記録がある[45][7]。この「阿哈塔来阿哈」という名前は『蒙古源流』が「アリマン丞相の妻」とするAqadalai agaと一致し、バヤン・テムルがアスト部の首領であったことを裏付ける根拠となっている[7]

系図

脚注

参考文献

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