毛岸英
From Wikipedia, the free encyclopedia
湖南省長沙市湘雅医院に生まれる。中国共産党の活動家であった母の楊開慧は毛岸英が8歳の時に国民党軍に逮捕・銃殺された。母の死後、上海で浮浪児となっていたところを発見され、1936年にソ連のモスクワ東部イヴァノヴォにあるインタードームに留学した[1] 。第二次世界大戦中は赤軍に加わり、独ソ戦ではポーランドで砲兵として戦った[2]。

1947年にソ連共産党に入党、ロシア語に堪能なために幹部のロシア語通訳として勤務した。1949年10月に劉松林と結婚する。1950年夏に北京機器総厰の党総支部の副書記に任じられた。しかし、朝鮮戦争で彭徳懐のロシア語通訳として従軍中、平安北道昌城郡東倉面大楡里(現在の東倉郡大楡労働者区)において、アメリカ空軍のナパーム弾による爆撃で戦死した(#戦死時の状況を巡る議論も参照)。毛沢東は息子の死を1951年1月3日に秘書の報告で知った。
毛岸英の墓は朝鮮民主主義人民共和国平安南道檜倉郡の中国人民志願軍烈士陵園にあり、銅像も存在する[3]。中朝関係を象徴するものとして、北朝鮮の最高指導者でもある金正日[4]やその後継者の金正恩[5][6][7][8]など両国の要人が訪れている[9]。中国側でも、国境の町遼寧省丹東市の市街地を見下ろす丘にある「抗米援朝記念館」に毛岸英の胸像がある[10]。
没後60年にあたる2010年には毛岸英を主人公とするテレビドラマが制作され、中央電視台より放送された。