民野健治
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東京都出身[2]。東京大学法学部卒業後、1993年司法修習生。1996年検察官任官[3]、東京地方検察庁検事。同年京都地方検察庁検事[4]。1997年福岡地方検察庁検事[5]。1999年東京地方検察庁検事[6]。2000年千葉地方検察庁検事[7]。2001年法務省刑事局付(東京地方検察庁検事兼法務事務官)[8]。
2002年法務省刑事局付兼法務省大臣官房付兼法務省大臣官房秘書課付(東京地方検察庁検事兼法務事務官)[9]。2003年法務省刑事局付(東京地方検察庁検事兼法務事務官)[10]。2004年法務省刑事局付兼法務省入国管理局付(東京地方検察庁検事兼法務事務官)[11]。
同年から外務省に出向し[12]、在ドイツ日本国大使館一等書記官を経て、2007年東京地方検察庁検事[13]。2010年横浜地方検察庁検事[14]。2012年東京地方検察庁立川支部検事。2014年東京地方検察庁検事兼東京高等検察庁検事。2015年札幌地方検察庁特別刑事部長[15]。2017年東京高等検察庁検事[16]。 2018年東京高等検察庁検事兼東京地方検察庁検事[17]。
2019年千葉地方検察庁刑事部長[18]。2020年公安調査庁総務部長(東京高等検察庁検事)[19]。2022年法務省大臣官房会計課長(最高検察庁検事)[20]。2023年最高検察庁検事[21]、日本司法支援センター審査委員会委員[22]。2024年法教育推進協議会委員[23]。2025年奈良地方検察庁検事正[24]。
取り調べへの批判
- 民野の取り調べを受けた石川知裕の女性秘書はインタビューで、「10時間拘束され、子どもの迎えも行かせてもらえず、弁護士に電話もさせてもらえなかった」、「イスの背もたれに背中がついても怒られた」、「私が立ち上がると『座りなさい』と言われ、検事の声も段々大きくなってきました」と取り調べの様子を語った[25]。その女性秘書は圧迫質問を受け続けて難聴になったとされる[1]。
- 週刊朝日や上杉隆は、この事件をいち早く取り上げ、検察の姿勢を批判したが、一般の新聞などはほとんど取り上げなかった。
- 東京地方検察庁は、この週刊朝日の記事が事実無根であるとして、同誌編集長あてに抗議文を送った。検察当局が捜査関連記事で出版元に抗議するのは、異例である。
石川知裕政策秘書の法廷での証言
2011年12月15日の小沢一郎の公判で、この女性秘書が証言した。証言内容は下記のとおり。
- 2010年1月26日の午前10時に、民野と名乗る人から、私の携帯に電話がありました。午後1時45分に検察庁に来てくれということでした[26]
- その話を聞き、資料の返却かと思い、検察庁へ赴くと「ホニャララ、ホニャララの被疑者として取り調べる」として黙秘権を説明し、聴取を始めたという。女性秘書は再び容疑を尋ねたが、民野は答えなかった。また、持ち物を検査され、携帯電話も目の前でディスプレーを見せ、消すことを要求され、女性秘書は従ったとのこと[26]。
- また、一方的に自分が検事になった理由などを話していたが「だんだんとイライラされて、何で黙っているのかとヒステリックになりました」[26]と証言した。
- さらに、民野はにやにやしながら女性秘書の家族の写真を眺め「こんなかわいい子供たちが犯罪者の子供ということになったら、どう思うだろうね」[27]と圧迫した。
- また午後9時頃には「机の下に手を置いて、ぎゅっと握っていました。急に机をボンッとたたかれて『話を聞く態度じゃない』と注意されました。さらにその後、背もたれに体を寄せると、またボンッと机をたたかれ、『人の話を聞く姿勢じゃない。背筋を伸ばせと言われました』」と述べた[27]。
- 午後10時を回り、取り調べが9時間を超えたところで弁護士に電話しようとすると「本当に、本当に、石川の心証が悪くなってもいいんだな。石川がどうなってもいいんだな」と脅した[27]。
- 電話で弁護士が「先生は大声で抗議していたので聞こえました。『参考人として呼んだのか、被疑者として呼んだのか』と聞かれ、民野は『参考人』と答えていました」[27]とした。
- この後無事帰れると思って立ち上がったところ、「ドアの前で通せんぼされ『座れ』と言われました。私を見下ろしてにやにやし、『弁護士に頼ってもムダだということが分かったでしょ』と続けました」[27]と述べた。
- 午後11時ごろになり、部屋にかかってきた内線電話で民野の態度が急変し、女性は家に帰ることを許され、歩いて議員会館に戻ったという[27]。