『正倉院文書』に「気多(気太)命婦」とも記されている[3]。
天平17年(745年)1月、正六位下から外従五位下に叙される。同19年(747年)10月、聖武天皇により公(きみ)姓を賜与される。
正倉院宝物である天平勝宝4年(752年)4月の大仏開眼会の献納物の紙箋3枚のうちに「気多十千代献」の墨書があり[4]、同5年(753年)9月、「気太命婦」の名で『理趣経』書写のために紅紙を納めている。当時、藤原宮子・聖武太上天皇が相次いで没し、光明皇太后や孝謙天皇は願経、供養経の書写に明け暮れたため、命婦たちが使役されたことが窺われる。
天平宝字4年(760年)5月、従五位上から正五位上に昇叙される。