水師営
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水師営会見所

旅順の水師営は清朝の康煕帝の時代に設置され、この地の地名となった[2]。日露戦争時、日本軍はこの水師営にある劉という名の農家を病院として使用した[2]。
旅順攻囲戦で1905年(明治38年)1月1日に旅順要塞司令官・アナトーリイ・ステッセリ中将は第三軍司令官・乃木希典大将に旅順開城を申し出て、翌2日にはロシア側のレイス参謀長と日本側の伊地知参謀長が水師営で旅順開城規約(開城規約)に調印して戦闘は停止された[2][3]。
同月5日、乃木とステッセリが約2時間にわたり水師営で会見を行い、乃木にアラブ産の白馬が贈られ庭のナツメの木につながれた[2][3]。