水田竹圃 From Wikipedia, the free encyclopedia 水田 竹圃(みずた ちくほ、本名:水田忠治〈みずた ただはる/みずた ちゅうじ〉、1883年(明治16年)2月14日 - 1958年(昭和33年)7月11日)は、明治から昭和にかけての日本画家。名は敬。別号に満碧堂、積翠堂、水竹居、蟻池庵など。 大阪府大阪市に、水田豊次郎の長男として生まれる[要出典]。1897年(明治30年)より南画を姫島竹外に習い、漢学を伊藤介夫に学んだ[1]。1902年(明治35年)、西長崎や北海道の各地を遊歴し、1903年(明治36年)の第5回内国勧業博覧会に出品した[2]。また、1912年(明治45年)には中国を巡遊し、帰国後に名声を高めた[2]。 1912年(大正元年)の第6回文展で「湲山滴翆」で初入選を果たし褒状を授けられた[1]。同年には大正美術館の結成に参加した[2]。第9回文展では「大華山実景」で3等賞を受賞、第10回の文展では「早春」が特選となった[1]。1918年(大正7年)、大阪茶話会の会員となり[2]、1919年(大正8年)に大阪から京都府京都市御幸町通に移住した[1]。 1921年(大正10年)、河野秋邨たちと日本南画院を創立する[1]。南画院の第1回展に「泰山」と「牧羊」を出品し、同年から画塾の「菁我会」を主宰した[1]。1926年(大正15年)の第7回帝展では委員を務め、1929年(昭和4年)には審査員を務めた[1]。1935年(昭和10年)、日本南画院が解散[1]。1937年(昭和12年)の第1回新文展に「下賀茂春暁」を無鑑査出品した[1]。戦後の1948年(昭和23年)の第4回日展から出品依嘱として発表[1]。1953年(昭和28年)に京展の審査員を務めた[1]。 1958年(昭和33年)7月11日に京大病院にて死去[3]。享年75[3]。 他の代表作に「普陀」「三峡」「秋声」「残照」「月光」などがある[4]。また、画家の水田硯山は実弟で、水田慶泉は長男[2]。 脚注 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 20世紀日本人名事典『水田竹圃』 - コトバンク 1 2 3 4 5 “姫島竹外門下で山田秋坪とともに双璧とされた水田竹圃”. 2025年10月29日閲覧。 1 2 デジタル版 日本人名大辞典+Plus『水田竹圃』 - コトバンク ↑ “東文研アーカイブデータベース 水田竹圃”. 2025年10月29日閲覧。 Related Articles