水谷義三郎
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文化3年12月11日(1807年1月19日)、江戸市ヶ谷に尾張藩士一色九郎右衛門[4]の三男として生まれた[2]。九郎右衛門の名古屋での住所は南呉服町[2]。次兄は大津町の毛利家に養子に入ったという[2]。
文政4年(1821年)9月徳川斉温に御目見、天保4年(1833年)5月水谷豊文の家督を相続し、馬廻組に配属され、8月御薬園御用出役を兼ねた[2]。天保7年(1836年)6月大番二番奥田矢左衛門組に転じ、天保13年(1842年)12月29日遠藤勘左衛門に代わり大番組与頭並に昇進し、天保14年(1843年)9月御薬園御用手伝を兼ねた[2]。弘化2年(1845年)12月義三郎と改名し、弘化3年12月13日(1846年1月29日)没[2]。
娘は4人いたが、男子はなかったため、岩本又七次男を養子とし、水谷助六の名を継がせた[2]。
ある年の盆前頃、豊文と春日町泰昌寺に墓参し、先祖の墓碑を掃除中、側にあった蜂の巣を箒で払った所、蜂に襲撃され、片眼を失ったという[2]。