水谷豊文
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安永8年(1779年)4月19日、尾張国名古屋御園町筋横三蔵下ル9軒目西側(現名古屋市中区栄一丁目26番[3])に尾張藩士水谷覚夢の子として生まれた[1]。幼名は為吉、後に武之丞、寛政4年(1792年)10月10日助六と改めた[1]。
父覚夢に本草学を学んだ後、浅野春道の紹介で京都の小野蘭山に入門した[1]。
寛政6年(1794年)5月19日藩主徳川宗睦に御目見し、寛政9年(1797年)1月豊文と称した[1]。享和2年(1802年)3月4日家督相続し、馬廻組、享和3年(1803年)10月4日大番組、文化2年(1805年)2月御広敷詰を経て、5月御薬園御用となった[1]。
この頃から伊勢、美濃、木曽等に勢力的に採薬に出かける傍ら[1]、浅野春道、大窪太兵衛、岡林清達、柴田洞元、西山玄道、浅野文達、大河内存真等と本草会を開き、この後身嘗百社において中心的役割を果たした[4]。
文政9年(1826年)4月29日シーボルトが熱田宿に投宿した際、伊藤圭介、大河内存真等と共に会見した[1]。この際、豊文が見せた莨菪(ハシリドコロ)の図について、シーボルトは眼科薬に使用するベラドンナと誤鑑定したが、その後眼科医土生玄碩にベラドンナを熱田で見たと教えたことを契機として、同様の薬効があることが発見された[1]。
また、文政年間にはヒトツバタゴを発見・命名したとされ、犬山市にあるヒトツバタゴ自生地にはその解説文が掲示されている[2]。
天保4年(1833年)3月20日暁七ツ半頃死去し、春日町泰昌寺に葬られた[1]。天保6年(1835年)3月15日一行院で三回忌追薦の大会が行われた[1]。