水野良平
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1899年10月19日、神奈川県横須賀市に生まれる[2][3]。父は海軍の軍人であった[2][3]。のちに東京に移住し、主に麻布飯倉片町で育った[2]。
1912年3月、麻布小学校を卒業[2](12歳)。 1917年3月18日、麻布メソジスト教会(鳥居坂教会)で倉長巍牧師から受洗[3][4](17歳)。幼少のころから日曜学校に通っていた[2]。
1918年、東京高等師範学校附属中学校を卒業し、東京物理学校(のちの東京理科大学)に入学[2](18歳)。
1921年4月、麻布教会の日曜学校の教師となる[2](21歳)。
1922年、東京物理学校を卒業し、東京大学航空研究所に就職[2](22歳)。
1923年8月、東京府東京市麻布区にあった東京天文台に入台[2][3](23歳)。報時の観測と研究に携わる。
1924年、東京天文台が北多摩郡三鷹村(現:東京都三鷹市)の現在地に移転[5]。
1927年4月29日、日曜学校の生徒だった淑子と結婚[2](27歳)。のちに二男一女をもうける[2]。
1928年の秋、子供会(毎週水曜日に子どもに賛美歌を教え、聖書について話す会)を行う場所として、自身の官舎(天文台の敷地内)の隅に10畳足らずのバラック小屋を建てる[2]。
1932年4月、官舎に建てた小屋に幼稚園「つぼみ会」を開設[2][6][7](32歳)。
1939年春から1年間[† 1]、『小学生の科学』(誠文堂新光社)に「光川ひさし」名で「宇宙見学旅行」を連載[8]。1940年7月、連載をまとめた『宇宙旅行』を発刊し、戦後(1948年)には著者名を本名に改めて上下巻で再刊された[8][† 2]。
1939年5月3日、日本天文学会庶務理事に就任[11](39歳)、戦争を挟んで戦後までその任にあった[12][13][14][15][16][17]。
1940年4月、官舎を出て武蔵境に家を持つ[2](40歳)。
1946年4月20日、東京科学博物館(国立科学博物館)において戦後はじめて行われた第1回天文学普及講座に登壇[18](46歳)。以降、天文学普及講演会と名を変えたのちにも多数登壇することとなる[19]。
1947年7月、自宅を改造して武蔵境伝道所を開き、東京天文台を辞するまで運営する[2](47歳)。
1950年4月[† 3]、東京天文台の報時課長を辞し、横須賀学院に主事・理科教員として奉職[2][4][20](50歳)。
1950年ごろ、水野が横須賀学院に奉職していることを知った河原郁夫が水野のもとを訪ねる[21]。
1950年12月、横須賀中央教会を設立したという[2](51歳)。1952年6月、同教会は正式に日本基督教団に加盟し横須賀小川町教会となった[2][22](52歳)。
1952年9月に設立された横須賀天文学会の会長となる[23][24](52歳)。同会には学生だった河原郁夫や小林弘忠[† 4]が参画し、1956年ごろまで活動した。
1956年、横須賀学院を辞し、翌年春に開館する天文博物館五島プラネタリウムの責任者(学芸課長)として設立準備に携わる[26][27]。準備委員会の鏑木政岐[† 5]と村山定男の熱心な説得を受けたものであった[6][26][28]。
1957年4月1日、天文博物館五島プラネタリウムが開館[26][29](57歳)。有楽町にあった東日天文館(毎日天文館)が焼け落ちてから12年ぶりに東京に復活したプラネタリウムを学芸課長として取りしきった[26][30][31][29]。
1964年10月、横須賀に購入した土地に1年半かけて自力で建設した天文ドームが完成[2]、平作天体観測所と称した[2][32](64-65歳)。ブロックを3mほど円形に積み上げ、その上に耐水のベニヤ板を張ったドームを載せており、回転部分はオートバイのチェーンとギアを組み合わせたという[32]。しばしば武蔵境の自宅から通った[2]。
1966年7月、前年に建設した平作天体観測所に隣接して住居をつくり[2][32]、武蔵境から横須賀に転居[2](66歳)。
1969年7月21日、アポロ11号が人類初の月面着陸に成功した。五島プラネタリウムではNHKのスタジオとNASAのジョンソン宇宙センターから送られてくる映像との三元中継を含むティーチイン(英語: Teach-in)が午前0時から行われた[26][33]。午後2時半からは東京12チャンネルのスタジオと宇宙との中継番組がドームで無料公開され[26]、水野も番組に出演した[34]。
1972年1月10日、15年間にわたってその職にあった五島プラネタリウムの学芸課長を退任し、嘱託となる[6][26][30](72歳)。
1974年1月10日、五島プラネタリウムの現場から離れる[6][26][30](74歳)。その後も同館の評議員・学芸委員・星の会委員を務めた[6][26]。
1977年11月2日、昭和天皇の臨席のもと行われた国立科学博物館開館100周年記念式典において、天文学普及講演会(当初は天文学普及講座)の最多登壇者として表彰された(78歳)[19]。