永瑢

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愛新覚羅 永瑢
質荘親王
華冠絵永瑢像(北京故宫博物院所蔵)
続柄 乾隆帝第六皇子

出生 乾隆8年12月14日1744年1月28日
清の旗 大清国北京紫禁城
死去 乾隆55年5月1日1790年6月13日
清の旗 大清国北京紫禁城
父親 乾隆帝
母親 純恵皇貴妃スギャ氏(蘇佳氏)
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愛新覚羅 永瑢(あいしんかくら えいよう、満洲語: ᠶᡠᠩ
ᡳᠣᠩ
 転写:yung iong、乾隆8年12月14日1744年1月28日) - 乾隆55年5月1日1790年6月13日))は、乾隆帝の第六皇子。母は純恵皇貴妃スギャ氏(蘇佳氏)。

永瑢は乾隆8年12月14日1744年1月28日)に乾隆帝の第六皇子として円明園の碧桐書院で生まれた。生母は純妃蘇氏であった。

乾隆9年(1744年)10月、会計司の郎中である申琦らが、永瑢の乳母を雇う費用として、規定に従い銀79両を支給する旨の文書を発行している。

『雍和宮満文檔案譯編』の記録によると、永瑢は乾隆9年(1744年)11月には『碧桐書院阿哥』と呼ばれていて、彼に仕えていた太監として、王進忠と張進忠の2名が記されている。

乾隆23年(1758年)の『内務府奏案』には、永瑢がその年の10月3日と10月23日の2回にわたり慎郡王府を訪れたことが記録されており、これによって乾隆帝が皇子の慎郡王家の爵位継承について以前から考え、準備をしていたことがうかがえる。

乾隆24年(1759年)12月、大叔父にあたる康熙帝第21皇子慎靖郡王允禧の養孫として出継(別の家系に養子として迎えられること)し、ベイレ(貝勒)の爵位を授けられた。

乾隆28年(1763年)10月26日、総管内務府の奏折には以下のような記載がある。 「毎年の俸銀(給料)、俸米(給与として支給される米)、房屋の賃貸収入、土地の地代、質屋の利息などの収入を合計すると、12,860両余りになる。しかし、府内での祭祀費用、慎靖郡王の正室および側室、さらにアゲ(阿哥、皇子)のダ・フジン(嫡福晋、正室)のための公費、食事代、お茶代、暖房のための石炭代、外出時の馬車の雇用費などに年間15,500両余りを費やしている。そのため、年間の収入では賄えず、約2,600〜2,700両の不足が生じている。 また、ニングチ・アゲ(六阿哥、第六皇子、永瑢)はすでに分封(独立した地位を与えられること)されているものの、現在は宮中で学問を続けているため、食事や外出用の馬、弓矢などは内廷(皇室)の他のアゲたちと同じ基準で支給されている。しかし、このままでは府の財政が逼迫し、将来的に官からの補助が削減された場合、内府(宮廷)の予算だけでは到底足りなくなるであろう。」

この状況を受け、乾隆帝は内務府が所有する質屋「慶春当」(本利銀24,808両2銭6分8厘3毫の資産を持つ)を永瑢に下賜するよう命じた。

乾隆37年(1772年)、質郡王に昇進。

乾隆54年(1789年)、さらに質親王に昇進。

永瑢は詩文や絵画に優れ、また天文学や数学にも精通していた。四庫全書館(四庫全書の編集を行った機関)の総裁を務めた。

乾隆55年(1790年)5月1日に薨去。 諡号は「荘」となった。

家庭

登場作品

参考文献

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