永野孝 From Wikipedia, the free encyclopedia 永野 孝[1](ながの たかし、1914年〈大正3年〉2月6日[2] - 没年不明)は、日本の保護司[2]、福祉事業家。阪南福祉事業会理事長[2]。岸和田市長をつとめた永野耕平の祖父。 大阪府岸和田市出身[3]。永野勇吉の長男[4]。1931年3月に大阪府立佐野工業学校卒業、同年4月に岸和田紡績に就職し、1933年に退社、家業の別珍加工業につく[1]。同年に司法保護団体公道授産会を設立、非行少年の収容保護を開始[3]、父親とともに従事する[1]。 1938年7月に別珍加工業を廃業する[1]。1943年、公道授産会を徴用工特別錬成道場に転換する[1][注 1]。1945年8月、終戦により公道授産会を再発足する[1][注 2]。1948年、児童福祉施設岸和田学園に転換する[3]。1958年、岸和田学園理事長兼園長[1]。 人物 阪南福祉事業会理事長として3つの保育所を運営し、全国ではじめて長時間夜間保育所をはじめる[6]。勲五等瑞宝章を授与される[6]。 人柄は「人に頭を下げたり、上手をいって自分の利益をはかるといったことが全くできない。どんなえらい人に対しても平気で自分のやりたいように生きてきた」と自身の著書で述べている[6]。宗教は浄土宗[3]。趣味は旅行[3]。住所は大阪府岸和田市三田町[3]。 家族 永野家 父・勇吉(1886年 - ?、社会福祉法人岸和田学園理事長[4]、永野別珍加工工場代表者[7]) 長男・孝男(大阪府議会議員、岸和田市議会議員、阪南福祉事業会理事長、1945年 - ) 二男・治男[2](槙塚こども園長) 三男・三郎[2](さくらこども園長)[8] 長女[2] 著書 『反骨で福祉を守る』[6] 脚注 注釈 ↑ 阪南福祉事業会の公式サイトには「1943年3月、産業少年特別錬成第3道場として、青少年の訓練事業に転換」とある[5]。 ↑ 阪南福祉事業会の公式サイトには「1945年8月、戦争終結により、産業青少年特別錬成第3道場を廃止し、要保護少年の収容保護事業を再開」とある[5]。 出典 1 2 3 4 5 6 7 『足跡 あとにつづくもののために 先輩社会事業家の文集』61 - 67頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2025年12月31日閲覧。 1 2 3 4 5 6 『現代人物事典 出身県別 西日本版』大阪957頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2025年12月31日閲覧。 1 2 3 4 5 6 『東京紳士録 昭和43年版』875 - 876頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2025年12月31日閲覧。 1 2 『輝く奉仕者 近代社会事業功労者伝』355 - 356頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2025年12月31日閲覧。 1 2 “沿革”. 社会福祉法人 阪南福祉事業会. 2025年12月31日閲覧。 1 2 3 4 『Chamber(468)』広告(国立国会図書館デジタルコレクション)。2025年12月31日閲覧。 ↑ 『全国工場通覧 昭和6年9月』紡織工業350頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2026年1月1日閲覧。 ↑ “【第2期】熊取町子ども・子育て支援計画 子ども・子育て会議 委員名簿” (PDF). 熊取町. 2026年1月2日閲覧。 参考文献 商工省 編『全国工場通覧 昭和6年9月』日刊工業新聞社、1931年。 中部社会事業短期大学 編『輝く奉仕者 近代社会事業功労者伝』近代社会事業功労者伝刊行会、1955年。 東京探偵社 編『東京紳士録 昭和43年版』東京探偵社、1967年。 『現代人物事典 出身県別 西日本版』サン・データ・システム、1980年。 『足跡 あとにつづくもののために 先輩社会事業家の文集』大阪府社会福祉協議会従事者部会、1981年。 『Chamber(468)』大阪商工会議所、1994年。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。表示編集 Related Articles