永養寺 (下呂市)

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所在地 岐阜県下呂市萩原町尾崎936
位置 北緯35度55分30秒 東経137度11分56秒 / 北緯35.92500度 東経137.19889度 / 35.92500; 137.19889座標: 北緯35度55分30秒 東経137度11分56秒 / 北緯35.92500度 東経137.19889度 / 35.92500; 137.19889
山号 光頂山
永養寺
所在地 岐阜県下呂市萩原町尾崎936
位置 北緯35度55分30秒 東経137度11分56秒 / 北緯35.92500度 東経137.19889度 / 35.92500; 137.19889座標: 北緯35度55分30秒 東経137度11分56秒 / 北緯35.92500度 東経137.19889度 / 35.92500; 137.19889
山号 光頂山
宗派 真宗大谷派
本尊 阿弥陀如来
創建年 明応3年(1494年)
開基 了敬
中興年 寛永3年(1626年)
法人番号 1200005010634
永養寺 (下呂市)の位置(岐阜県内)
永養寺 (下呂市)
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永養寺(えいようじ)は、岐阜県下呂市萩原町尾崎にある真宗大谷派(東本願寺)の寺院。山号は光頂山。

郡上長滝寺の僧が、山科本願寺実如法主の門弟となり、了敬と称して飛騨国益田郡尾崎村に古くからあった天台宗の寺を、

明応3年(1494年)、浄土真宗の道場としたのが始まりである。

寛永3年(1626年)、東本願寺十三代法主の宣如より永養寺の寺号を賜った。

東本願寺十六代法主の一如の法子として生まれた淨教理傳が、元禄時代の初期前後に、永養寺の十世となった。

当時、飛騨には浄土真宗本願寺派(西本願寺)の寺院が7箇寺あり、この総帥として高山に、西本願寺末坊として勝久寺があった。

永養寺は他の寺よりも先に本願寺第一の掛物、虎符[1]妙権、親鸞上人、七高僧の3幅を迎えたところ参詣者が多くなり、このことを他の寺の住職が妬み、勝久寺に讒訴したので、

元禄5年(1692年)淨教理傳は、本尊と3幅の掛物と金子15両を持って家族と伴に永養寺を去った。

このため本尊を失った永養寺では、了敬が授かった絵像本尊を安置し、高山称讃寺より住職を迎えるまでの十数年間、村名主の吉左衛門の父が留守居役を勤めた。

淨教理傳は浄土真宗本願寺派に転派して、越中国へ行ったものの、思うようにはならず、

元禄6年(1693年)に恵那郡加子母村に辿り着き、当時の山庄屋[2]九代目内木彦七郎の世話を受け、当時廃寺となっていた道照坊を復興して加子母村万賀の向脇(黒沼田平)に居を構え、布教に努めた。

元禄12年(1699年)淨教理傳は、加子母村の字・白谷に、白谷山 永養寺 (中津川市)を創建した。

寛保3年(1743年)十三世の祐天のときに、尾崎の永養寺は現在の本堂を建立し、東本願寺より木仏尊形を新しく迎えて現在に至っている。

宝暦12年(1762年)、加子母の永養寺は、字・井尻に移築し、代々布教に努めたが、檀家数が75戸(加子母15戸・付知60戸)では到底維持することができず、

明治18年(1885年)、加子母の永養寺は、八世の今井儀秀の没後に、加茂郡蜂屋村浄明寺蜂屋乗願が、一時期兼務したという記録があるが、事実上、今井儀秀が没したことにより廃寺となった。

加子母の永養寺の本尊[3]は、近くの民家に安置されていたが、昭和初期に尾崎の永養寺に帰り、寺宝として安置されている。

永養寺が所蔵する「木佛本尊御免之印書」には以下の文言が記されている。

釋寂如(花押)

元禄六 癸酉 孟春晦日

木佛尊形 飛騨國益田郡尾崎村永養寺

住者 願主 釋理傳

鐘撞堂の脇に咲く「しだれ桜」は、下呂市の指定天然記念物となっている。

指定文化財

下呂市指定文化財

  • (彫刻) 永養寺本堂内陣欄間 5枚 指定年月日:1972年(昭和48年)5月30日

下呂市指定天然記念物

  • (天然記念物) 永養寺のシダレザクラ 指定年月日:1972年(昭和48年)5月30日

脚注

参考文献

外部リンク

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