永養寺 (中津川市)
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創建時期や由緒は不詳であるが、当初は道照坊と称し、飛騨国益田郡御厩野にあった真言宗の大威徳寺の末寺として開創されたと伝わる。
天正13年(1585年)に発生した天正地震によって大威徳寺は壊滅したため、道照坊も衰微した。
東本願寺第十六代法主一如の法子として生まれた淨教理傳は、元禄時代の初期前後に飛騨国益田郡尾崎村[1]の真宗大谷派の永養寺の十世となった。
当時、飛騨には浄土真宗本願寺派(西本願寺)の寺院が7箇寺あり、この総帥として高山に、西本願寺末坊として勝久寺があった。
飛騨の永養寺は他の寺よりも先に本願寺第一の掛物、虎符[2]妙権、親鸞上人、七高僧の3幅を迎えたところ参詣者が多くなり、このことを他の寺の住職が妬み、勝久寺に讒訴したので、元禄5年(1692年)淨教理傳は、本尊と3幅の掛物と金子15両を持って家族と伴に永養寺を去り、浄土真宗本願寺派に転派して、越中国へ行ったものの、思うようにはならず、元禄6年(1693年)に加子母村に辿り着き、当時の山庄屋[3]九代目内木彦七郎の世話を受け、当時廃寺となっていた道照坊を復興して加子母村万賀の向脇(黒沼田平)に居を構え、布教に努めた。
元禄12年(1699年)十代目内木彦七郎の厚意により字・白谷に、白谷山 永養寺を創建した。
宝暦12年(1762年)、字・井尻に移築し、代々布教に努めたが、檀家数が75戸(加子母15戸・付知60戸)では到底維持することができず、明治18年(1885年)、八世の今井儀秀の没後に、加茂郡蜂屋村の浄明寺の蜂屋乗願が、一時期兼務したという記録があるが、事実上、今井儀秀が没したことにより廃寺となっている。
本尊は、近くの民家に安置されていたが、昭和初期に飛騨の永養寺に戻されて安置されている。
その他の仏像や什器などの寺宝は、全て浄明寺に移した。梵鐘は飛騨の某寺に売却した。
今井儀秀の子孫は農業を営み、永養寺の屋号のみを残していたが、昭和19年(1944年)、火災によって、自家で保存していた古文書は全て失われた。