江戸通長 From Wikipedia, the free encyclopedia 時代 室町時代 - 戦国時代生誕 宝徳2年(1450年)死没 明応3年11月12日(1494年12月9日)[1]別名 通泰[2]、通称:彦五郎[2] 凡例江戸通長時代 室町時代 - 戦国時代生誕 宝徳2年(1450年)死没 明応3年11月12日(1494年12月9日)[1]別名 通泰[2]、通称:彦五郎[2]戒名 阜山道鶴[3]/妙雲[2]官位 但馬守、従五位下[2]氏族 常陸江戸氏父母 父:江戸通秀(修理亮)兄弟 (通房が父の場合)通秀、通長、通雅、鳥子通治、鯉淵頼通、小野崎通栄、枝川通弘、春秋通式、祐通、大山義成室[4](通秀が父の場合)通長、通雅、男子(円通寺僧)妻 正室:小野崎義通娘[2]妻:小野崎通栄娘[5]子 通雅[5]、通式[5]、獨放鈍聚和尚[5]、佐竹義治妾[5]テンプレートを表示 江戸 通長(えど みちなが)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。常陸江戸氏4代当主。常陸国水戸城主。 常陸江戸氏は常陸の国人。藤原北家魚名流とされる藤原秀郷の後裔・川野辺氏の支流である那珂氏の傍流。 略歴 江戸通房あるいは通房の子・通秀(修理亮)の嫡男として誕生[3]。 寛正6年(1465年)、家督を継いだ[6]。当時の常陸守護・佐竹氏では、先々代の佐竹義人が一旦家督を譲った嫡男・義俊を廃して弟・実定を守護にした事から内紛が生じていた。通長は実定を支持していたが、実定の死後に義俊が常陸太田城に復帰して、実定の嫡男・義定は水戸城の通長を頼った。ところが、義人の死後の文明9年(1477年)に義俊方の刺客が水戸城を襲撃して義定を暗殺すると、通長はこれに驚いて義俊に降伏した。 その後は佐竹氏傘下として文明13年(1481年)には小鶴原の戦いで小田成治を破り、続いて鹿島郡に進出するなど、常陸南東部に勢力を広げた。ところが、延徳2年(1490年)に山入義藤が佐竹氏に叛旗を翻すとこれに加担した。 明応3年(1494年)、病没。通長には子が無かったため[7]、家督は弟・通雅が継いだ。 脚注 ↑ 『史料綜覧』第8編之909 12頁 1 2 3 4 5 『常陸三家譜』 1 2 『新編常陸国誌』 ↑ 『常陸史料』 1 2 3 4 5 『江戸氏譜』 ↑ 『史料綜覧』第7編之908 185頁 ↑ 『江戸氏譜』には子として通雅、通式、獨放鈍聚和尚、佐竹義治妾の記載がある。 出典 『新編常陸国誌』 『江戸氏譜』 『常陸三家譜』 『常陸史料』 Related Articles