佐竹義治
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当時の佐竹家は、一族の山入氏との対立や、関東管領上杉氏、鎌倉公方(古河公方)の相次ぐ家中への干渉などにより弱体化しており、享徳元年(1452年)に父の義俊は一時居城を追われて、大山氏を頼るなど衰退の色を深めていた。この時、義治は那珂郡斧沼の要害(那珂西城)に居を移していた。
応仁元年(1467年)11月に太田城に父と共に帰還し、文明9年(1477年)に父が没したため家督を継いだ。
義治が当主となった後も一族の内紛は続き、まもなく古河公方と通じた佐竹山入家当主佐竹義知は久米城の久米義武を攻撃してくる。一時、義武が戦死するなど苦戦したが、義治は岩城氏など周辺国の援助も受け、ついに義知を討った。山入家の脅威が去ったものの、今度は佐竹氏の弱体化を知った岩城氏の岩城常隆の侵略を招いた。車城や竜子山城など佐竹方の城は次々に失陥し、一時は常陸太田城も脅かされたが、岩城氏に車城など三城を割譲し、子の義舜の妻に常隆の妹を迎えることで和議を結んだ。
文明19年(1487年)2月、18歳になった嫡男義舜に家督を譲って隠居する[1]。
延徳2年(1490年)4月25日死去、享年48。天徳寺に葬られた。ところが、その天徳寺における葬儀で江戸通雅と小場義忠が焼香の順番を巡って口論を始め、激怒した義舜が通雅を幽閉し、それを取りなそうとした天神林義成にまで謀反の疑いをかけた。これを知った山入家の佐竹義藤(義知の甥)は3か月後に常陸太田城を襲撃、江戸氏・小野崎氏・天神林氏などは義舜を救わなかったために城の奪取に成功することになる[2]。