江見絹子 From Wikipedia, the free encyclopedia 生誕 荻野 絹子 (1923-06-07) 1923年6月7日兵庫県明石市死没 (2015-01-13) 2015年1月13日(91歳没)国籍 日本出身校 兵庫県立加古川高等女学校江見 絹子(えみ きぬこ)生誕 荻野 絹子 (1923-06-07) 1923年6月7日兵庫県明石市死没 (2015-01-13) 2015年1月13日(91歳没)国籍 日本出身校 兵庫県立加古川高等女学校著名な実績 絵画受賞 横浜文化賞(1991年)神奈川文化賞(1997年) 選出 行動美術協会 江見 絹子(えみ きぬこ、1923年〈大正12年〉6月7日[1] - 2015年〈平成27年〉1月13日)は、日本の画家。本名は荻野絹子。夫はフランス系アメリカ人の船乗り、長女は芥川賞受賞作家で慶應義塾大学名誉教授の荻野アンナ[2][3]。 兵庫県明石市二見町生まれ[4]。兵庫県立加古川高等女学校(現兵庫県立加古川西高等学校)卒業[2]。女学校では絵画クラブに所属しており、油絵は男のすることと見なされた時代において、大反対する父を説き伏せ、卒業後に油絵の道へ進んだ。後に二紀会会員となる洋画家の伊川寛の個人教授を受けた後、戦後は神戸市立洋画研究所で学んだ[2][4]。 神戸市立太田中学校の図画教師を経て、1949年(昭和24年)、第4回行動展(行動美術協会の公募展)に初入選[2]、翌1950年(昭和25年)、第5回展で奨励賞を受賞、1952年(昭和27年)、第7回展で最高賞である行動美術賞を受賞、1953年(昭和28年)に行動美術協会で初の女性会員となった[4]。 同1953年からはアメリカやヨーロッパへ渡り、日本国外での個展の開催や絵画の研究を行った。1954年、南ヨーロッパ旅行でラスコー洞窟とアルタミラ洞窟の壁画を見た影響で、対象を簡略化した形体で捉える半抽象へと、作風が大きく変化した[4]。1975年(昭和50年)以降は火、水、風、土の四大元素をモチーフとした抽象画を展開した[5]。 私生活ではアメリカ人と結婚し、1951年(昭和26年)より神奈川県横浜市山手へ転居した。後の長女の荻野アンナの弁によれば、新婚当時は絵がそれほど売れず、非常に貧乏だったにも拘わらず、売るための絵は一切描かず、本当に自身が描きたい絵のみを描いていたという[6]。画家として名を成した後、1961年(昭和36年)に神奈川県女流美術家協会の設立の発起人となり、長年にわたって代表を務め、美術の普及や後進の指導に尽力した[2]。1964年(昭和39年)からは横浜市民を対象とした指導研究会や、公募展「女流展」を開催した。1991年(平成3年)に第40回横浜文化賞[7]、1997年(平成9年)に第46回神奈川文化賞を受賞した[2][8]。2004年(平成16年)に神奈川県立近代美術館、2010年(平成22年)に姫路市立美術館で江見絹子展が開催された[4]。 2015年(平成27年)1月13日、心不全で死亡した[5]。 脚注 [脚注の使い方] ↑ 『著作権台帳』 1 2 3 4 5 6 江刺昭子、かながわ女性史研究会編著『時代を拓いた女たち』 第III集、神奈川新聞社、2019年7月26日、36-37頁。ISBN 978-4-87645-597-3。 ↑ “荻野アンナのキリギリス式老後「亡き母・江見絹子の作品を残そうと一大決心。老後資金をつぎこんで」 お金はあの世にはもっていけないから|お金|婦人公論.jp”. 婦人公論.jp. 2022年4月14日閲覧。 1 2 3 4 5 “江見絹子”. 東京文化財研究所 (2014年). 2020年3月1日閲覧。 1 2 「画家の江見絹子さん死去 四大元素で宇宙的空間描く」『朝日新聞』朝日新聞社、2015年1月14日。オリジナルの2015年8月2日時点におけるアーカイブ。 ↑ 荻野アンナ (2020年2月26日). “荻野アンナのキリギリス式老後「亡き母の絵画修復費で、ベンツ1台分のお金が飛んでいく」”. 婦人公論. 中央公論新社. p. 1. 2020年3月1日閲覧。 ↑ “過去の受賞者一覧”. 横浜文化賞. 横浜市 (2019年3月1日). 2020年3月1日閲覧。 ↑ “神奈川文化賞歴代受賞者一覧”. 神奈川文化賞. 神奈川県 (2017年10月17日). 2020年3月1日閲覧。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。表示編集 典拠管理データベース 全般 FAST ISNI VIAF WorldCat 国立図書館 アメリカ 日本 Related Articles