江角ヤス
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島根県簸川郡久木村(現在の出雲市)で、誕生した。父・文之助と母・ユウの3女で、9人きょうだいの6番目の子供だった。家の宗教は浄土真宗であった。
1905年(明治38年)、久木村尋常高等小学校に入学し、1911年(明治44年)に卒業する。同年4月には、簸川群直江村外5ヶ村の組合立直江高等小学校に入学し、1914年(大正3年)に卒業する。同年4月、島根県女子師範学校(二部)に入学し、1916年(大正5年)に卒業する。同年4月、東京女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)理科に入学する。1918年(大正7年)に、母・ユウが死去する。1920年(大正9年)に東京女子高等師範学校を卒業する。義務年数を終えてから「東北帝国大学理学部室」を受験し、1923年(大正12年)に合格する[1][2]。
1924年(大正13年)、仙台にある畳屋丁教会で「洗礼」を受けた。洗礼名は「マリア」で、代母は東京女高師卒業の知人であるエリザベト岡はじめだった[3]。
教育者としての歩み
1926年(大正15年)4月、京都府立第一高等女学校に幼い頃からの念願だった数学教師として着任し、1929年(昭和4年)3月に退任した。同年4月に雙葉高等女学校に着任し、1930年(昭和5年)3月に退任している[4][5]。
1930年(昭和5年)4月にフランス・イギリス・イタリアに留学した。渡欧の目的は2つあり、1つ目は「新しい修道会を創立するための人材育成として修道女になること」、2つ目は「文部省嘱託の留学生として『欧米における女子の中等教育視察』をしてくること」であった[5][6]。
1934年(昭和9年)大泉かつみと共に帰国し、同年6月9日午後、長崎教区長・早坂久之助司教に呼びだされ、長崎の浦上天主堂で新しい修道会として「長崎純心聖母会」を創立し、新修道会の責任者として任命された[5][6]。
1935年(昭和10年)に、中町教会に仮校舎として建てられた「純心女子学院」(現在の純心中学校・純心女子高等学校)に初代院長として任命される。創立者・早坂久之助司教の思いを汲み取った上で、聖母マリアを理想と仰ぐ純心教育を展開した。1936年(昭和11年)3月27日に、文部省から設立認可を受け、異例の速さで「純心女子学院」から「純心高等女学校」へ昇格した。学校長は、1961年(昭和36年)に退任した[7][5]。
1940年(昭和15年)10月に、鹿児島純心高等女学校(現在の鹿児島純心女子中学校・高等学校)を設立し、理事長となった。その後、鹿児島純心女子学園は中学・高校・短期大学・大学を擁する学園に成長している。理事長は、1980年(昭和55年)に退任した[5]。
1950年(昭和25年)4月に、純心女子短期大学(後の長崎純心大学短期大学部)を設置し、学長に就任した。この短期大学は、社会科・保育科の設置認可を得た。学長は、1964年(昭和39年)に退任した[5]。
昭和30年代から40年代に、多数の学校や福祉施設を設立している。
1962年(昭和37年)4月に、学校法人川内純心女子学園(川内純心女子高等学校)を設立した。1964年(昭和39年)4月に、学校法人東京純心女子学園(東京純心女子中学校・高等学校)を設立して理事長に就任し、1978年(昭和53年)4月に退任した。1967年(昭和42年)4月に、西彼純心幼稚園と東京純心女子短期大学を設置した。1968年(昭和43年)4月に、養護老人ホーム「恵みの丘」を設置した。1970年(昭和45年)4月に、恵みの丘長崎原爆ホームと山口県小野田老人ホームを設置した。1974年(昭和49年)5月に、経費老人ホーム「ときわ荘」を設置し、7月に学校法人純心女子学園理事長に就任した[5]。
晩年と功績の顕彰
1970年(昭和45年)に「恵の丘長崎原爆ホーム」の理事長に就任する。また本館落成にともない、江角は挨拶を行った。そこでは「恵の丘長崎原爆ホーム」設立の趣意を語っている。挨拶の内容は以下の通りである[8]。
二十五年前、中学二年生から高等学校一年生までの子供たちが、動員学徒で二一四名(職員共に)なくなりました。私たちは生き長らえて、(子どもたちに)水一杯もあげないでこの世に生き長らえていることを大変すまなく思っております。新しく原爆の法律によってホームが出来ることが決まりましたので、私たちは微力でございますけれども、あの子供たちに捧げるつもりで、本当に国を思い、親を思いながらきれいに亡くなっていったあの子たちのお父さんの、お母さんの一人でもお世話出来たら、ということでホームを建てました。—江角ヤス、愛ひとすじに シスター江角ヤス伝記 p.459
また1974年(昭和49年)、長崎純心女子学園の理事長に就任する。その長崎純心女子学園では「早坂記念図書館」を設立し、1977年(昭和52年)に落成式並びに祝賀会を行なった。この「早坂記念図書館」の名称は、長崎純心女子学園創立者の名前と、その創立者の司教祝聖50周年を記念して付けられた。また、明治、大正、昭和初期の信心書や教会関係の出版物を集め図書館で貸し出しできるようにした。また本を募集する中で、長崎の天主堂の写真のネガや、トラック1台分の本やダンボール箱数個、またカトリックに関する書籍を信徒や修道会から送付が行われ、それらが「早坂記念図書館」で取り扱うこととなった[8]。
1980年(昭和55年)5月に胃ガン末期の告知を受けた江角は自ら関係する各事業所に出向き、業務引継ぎとこれまでの感謝および最後の別れを述べ、同年7月12日、恵の丘長崎原爆ホーム別館落成式挨拶を最後の公務として引退した。同年7月19日に恵の丘長崎原爆ホーム(別館)に入所し、最後の4カ月半を過ごすことになった。11月30日午前3時55分、司祭、医師、多くの修道女たちが集まる中、穏やかに息を引き取った[9]。12月1日、長崎市栄誉市民に顕彰された[10]。
出典
- ↑ 山田幸子『福祉に生きる 55 江角ヤス 』大空社、2008年11月23日、年譜1頁。
- ↑ 『シスター江角ヤス初代校長先生の想い出』純心中学・純心女子高等学校子羊会、2000年2月15日、5頁。
- ↑ 『シスター江角ヤス初代校長先生の想い出』純心中学・純心女子高等学校子羊会、2000年2月15日、7頁。
- ↑ 純心中学・純心女子高等学校小羊会 編『シスター江角ヤス 初代校長先生の想い出』2000年2月15日、9頁。
- 1 2 3 4 5 6 7 山田雅子『純心女子短期大学「紀要」 第17集』純心女子短期大学、1982年3月31日、0-5頁。
- 1 2 山田幸子『シリーズ 福祉に生きる 55 江角ヤス』大空社、2008年11月23日、48,53頁。ISBN 9784283005877。
- ↑ 山田幸子『シリーズ福祉に生きる55江角ヤス』大空社、2008年11月23日、54-55頁。ISBN 9784283005877。
- 1 2 『愛ひとすじに シスター江角ヤス伝記』智書房、2021年7月22日、414-417頁。
- ↑ 山田幸子『福祉に生きる 55 江角ヤス』大空社、2008年11月23日、188,194頁。
- ↑ “名誉・栄誉市民”. 長崎市ウェブサイト. 2025年12月11日閲覧。