江馬修
日本の小説家 (1889-1975)
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来歴
岐阜県高山市生まれ。画家を志して出奔し、横山大観の家に同居していたこともあるが、5日で帰郷。1906年[1]、斐太中学校中退。田山花袋の書生や小学校の代用教員、区役所の臨時雇いなどを経て、1911年、『早稲田文学』発表の「酒」でデビュー[2]。夏目漱石門下の阿部次郎らと交遊。このころ小宮豊隆の紹介で夏目漱石にも会っているが、デビュー作「酒」の題名に引っ掛けて「酒の作者か、酒だるの作者か知らないが、もっとこっち来給えよ」と茶化され、気分を害して漱石から距離を置いた[3]。
1911年頃、森田草平や生田長江から石川啄木の病が重いことを聞き、知り合いの医師に頼んで啄木とその一家のもとに往診させる[4]。啄木の没後、1920年には盛岡で啄木歌碑の建立を提案し、そのために募金講演会を開き、1922年に歌碑除幕を実現させた[5]。
その間、1916年、長編『受難者』がベストセラーとなって名を挙げる[6]。当時、江馬は人気作家の一人で、偽者が現れて女を騙したり金銭を詐取したりする事件が続発した[7]。島田清次郎は、江馬の『受難者』『暗礁』に霊感を受けて『地上』第一部を書いた[8]。
1926年以後ヨーロッパに渡り、帰国後、『戦旗』に属するプロレタリア作家として活動する。1929年、特高に逮捕され約40日間留置の後、起訴猶予処分となる[9]。1934年に飛騨高山へ戻り、郷土研究雑誌『ひだびと』を創刊し、赤木 清の筆名で考古学論文を執筆。この期間に蓄えた郷土史の知識に基づき、戦中から戦後にかけて長編『山の民』を執筆[10]。
1946年、日本共産党に入り飛騨地区委員長となる[11]。1966年、日本共産党を離党[12]。中華人民共和国で最も有名な日本の作家だった。
1914年、25歳で初婚[2]。1917年、ピアニスト久野久と恋仲になる[13]。1927年、作家・民俗学者の江馬三枝子(本名、富田ミサホ)と再婚[9]。1950年[11]、当時28歳の豊田正子と知り合い夫婦同然に暮らすが、三枝子は離婚に承諾しなかった。ぬやま・ひろしとの交遊から文化大革命中の中国に渡り、豊田にこれを礼讃する著作を書かせるが、その後、1972年[12]、豊田を捨てて53歳下の天児直美と暮らした。1975年1月23日、老衰と脳軟化症のため東京都立川市の自宅で死去。戒名は焔燿院修智精進居士[14]。
江馬の作品は黒島伝治、大岡昇平、羽仁五郎などから非常に高く評価されたが、文壇からはほぼ黙殺された[15]。吉目木晴彦は16歳で江馬の『山の民』を読んで作家を志し、江馬の自伝『一作家の歩み』を修業時代のバイブルとしていた[16]。
著作
- 『蛇つかひ』(春陽堂) 1914年
- 『受難者』(新潮社) 1916年、旧新潮文庫 1938年、角川文庫 1952年
- 『寂しき道』(新潮社) 1917年
- 『暗礁』(新潮社) 1917年
- 『人及び芸術家としての国木田独歩』(新潮社) 1917年、のち復刻(日本図書センター)1983年
- 『愛と憎み』(新潮社) 1918年
- 『不滅の像』全3巻(新潮社) 1919年 - 1921年
- 『樫の葉』(新潮社) 1920年
- 『三つの木』(新潮社) 1921年
- 『運命の影』(新潮社) 1921年
- 『訪るる女』(新潮社) 1922年
- 『心の窓 感想と小品』(新潮社) 1922年
- 『極光』上・下(新潮社) 1924年
- 『羊の怒る時』(聚芳閣) 1925年、のち新版(影書房) 1989年
- 『羊の怒る時 - 関東大震災の三日間』(筑摩書房、ちくま文庫) 2023年8月 ISBN 978-4-480-43904-8
- 『追放』(新潮社) 1926年
- 『夏樹』(新潮社) 1926年
- 『阿片戦争』(戦旗社、日本プロレタリア作家叢書) 1930年
- 『山の民』全3部(飛騨考古土俗学会) 1938年 - 1940年、のち春秋社(上・下)、のち新版 2014年ほか
- 『郷土演劇運動の理論と実際』(白林書房) 1944年
- 『本郷村善九郎』(冬芽書房) 1950年
- 『流人』(青木書店、青木文庫) 1953年
- 『氷の河』全2部(理論社) 1955年
- 『一作家の歩み』(理論社) 1957年、のち復刻(日本出版センター、近代作家研究叢書 65) 1989年
- 『定稿 山の民』全4部(理論社) 1958年
- 『延安賛歌』(新日本出版社) 1964年
- 『江馬修作品集』全4巻(北溟社) 1973年
- 『飛騨百姓騒動記』(春秋社) 1989年 - 『江馬修作品集』第3巻[17]の新版
翻訳
評伝
- 天児直美『炎の燃えつきる時 江馬修の生涯』春秋社、1985年9月。