池田宏平
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海軍兵学校30期。山形県米沢市出身。父は米沢藩士・池田成章。同期生に百武源吾、松山茂などがおり、米沢からは今村信次郎、下村忠助など7名が入校している[3]。兵学校卒業後の遠洋航海から帰国した1903年(明治36年)12月、海軍少尉に任官し、ほどなく日露戦争開戦を迎えた。
池田は新造駆逐艦の配置を希望し[4]、第二駆逐隊所属の「雷」へ配属となる。日本海海戦の初日である1905年(明治38年)5月27日、日本海軍の駆逐隊、水雷艇隊はバルチック艦隊に対し夜間攻撃を実施した。午後8時15分、「雷」は北方からバルチック艦隊に肉薄。水雷長であった池田は照準を行い、魚雷発射命令を下そうとしたが、砲弾が命中。池田は左胸部に重傷を負い、部下に支えられながら発射命令を下した[5][注 1]。
翌28日、竹敷要港部の病院に収容されたが、30日に死去。海戦での日本の勝利を告げられた際に、「万歳」の言葉を残している。池田の軍帽は兵学校の教育参考館に陳列された[6]。