池田松次郎
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経歴
1915年10月28日、京都府京都市に生まれる。1933年4月に京都府立第二中学校から彦根高等商業学校(現 滋賀大学経済学部)へ入学、1936年に卒業し、同年に丸紅の前身である大同貿易に入社、本社の経理・外為係に配属された[2][3]。
本社配属後、1938年にブエノスアイレス支店に赴任し、入社後の比較的早い段階から海外で実務に従事していた。当時24歳であり、神戸港から移民船「あるぜんちな丸」に乗り、香港、シンガポール、コロンボ、ダーバン、リオデジャネイロ、モンテビデオを経て、56日かけてブエノスアイレスに到着した。支店では3人という少人数体制のもと、貝石真三支店長(後に伊藤忠商事副社長、栗田工業社長、会長)の指導を受けながら商社実務を学んだ。
赴任後、わずかに一年で第二次世界大戦勃発。戦火はヨーロッパ全土に拡大。 せっかくのブエノスアイレス支店も1941年に閉鎖となり、それに伴い同年6月に帰国し、農水産化学薬品係長となる。
帰国3か月で、ハノイへ赴任。しかし、ハノイ支店へ着任3か月で太平洋戦争勃発。
1944年、大同貿易は呉羽紡績・三興との合併により大建産業となった。池田は終戦時、サイゴン支店に勤務していた。終戦後はベトナム駐留イギリス軍の通訳として参謀部に徴用され、現地で任務にあたった。
1946年、ベトナム・ハノイから帰国し、大建産業の再受験を経て復帰した。京都支店に勤務し、1947年には33歳で支店の課長心得を務め、人事考課では「明朗闊達で誠実」と評価された[4]。1949年、大建産業が伊藤忠商事、丸紅、呉羽紡績、尼崎製釘所の4社分割に伴い、丸紅へ移り、大阪本社の貿易連絡課長となった[5]。
戦後の民間貿易再開期には、本社に対し貿易実務を担当させてほしいと強く希望し、「京都産品に限る」という条件のもとで輸出再開に携わった。ハノイ在住の日本人二世バイヤー向けに「花カルタ」の輸出を実現し、これが会社としての戦後第一号の輸出商品になった。その後も丸帯、訪問着、仏壇、数珠などを扱い、進駐軍向けの納入にも関わった。
1951年に米国へ立ち、1954年には米国丸紅会社の副社長を務めたのち日本へ帰国し、1961年に海外営業統括部長に就任している。
1963年5月に当時の社名である丸紅飯田の取締役に就任し、1965年に常務取締役に選ばれると、以降は業務本部長、社長室長、食糧本部長、専務取締役を経て、1975年に副社長に就任した[2][6]。
なお、1972年1月1日に社名を丸紅飯田から、従来の丸紅株式会社に変更しており、副社長就任時点では丸紅となっている[7]。
1975年、丸紅欧州社長としてロンドン赴任し、欧州・アフリカ地域を担当した。ロッキード事件発生により翌1976年3月急遽帰国。事件について、会社への社会的批判が強まるなか、部下から「娘が学校で罵声を浴びせられた」と打ち明けられたことが、長い商社生活の中でも最もつらい出来事の一つだったと回想している。こうした経験から、ロッキード事件後の社内再建と士気維持に深く関わった経営者の一人とみなされている[8]。
1981年6月に丸紅第7代社長就任。ロッキード事件後の後遺症をなお引きずる時期にあって、社内の結束と商機の再拡大を重視し、国内外での事業拡大を図った。海外では三国間貿易、国内では地方の商機追求を重視する姿勢を示していた[8]。
1983年3月、病気により松尾泰一郎会長が社長代行となり、同年4月に取締役相談役へ退いた(後任社長は春名和雄)[9]。同年7月8日に腎不全のため死去した[2]。67歳没。