池貝喜四郎
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千葉県平郡勝山村(現在の鋸南町)出身[1][2]。父は安房加知山藩酒井氏の分家において家老を務めた池貝重右衛門である[3]。
9歳の時、父である池貝重右衛門が士族の商法に失敗して、上京し小石川の住居に移った。11歳の時、兄の池貝庄太郎の芝区金杉町の住居に移り、金杉小学校に転校する[3]。小学校卒業後の13歳のときに兄が経営する池貝工場(池貝鐵工所を経て現在の池貝)に入り、機械工となった。
1889年(明治22年)兄の指導の下、車回し1人、仕上師1人、の4人で国産一号旋盤である英式9フィート旋盤2台を製作[3]。
第一次世界大戦が勃発しロシアから約600台の発動機を半年で製造する注文が入ったが治具や取り付け具を使い現有設備を活用し、専門機を自身の創意で数台作っただけで成し遂げた。また国内の製造業において多量生産が起こることを見通し大正5年から限界ゲージ方式を採用した。[3]。
1926年(大正15年)プロファイル縮写削成機を発明。
1933年(昭和8年)腸チフスのため死去(享年57歳)。