汪兆銘内閣
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1931年(民国20年)9月18日、柳条湖事件を発端として満洲事変が勃発した[1]。当時、国民政府は蔣介石率いる南京国民政府と陳済棠・汪兆銘・孫科などの反蔣派率いる広州国民政府に分裂していたが、国家の非常事態を背景に両者の和解が進み、翌1932年(民国21年)1月28日には汪兆銘が行政院長として政務を、蔣介石が国民政府軍事委員会委員長として軍務を分担する蔣汪合作政権が成立した[1][2]。
しかし、汪兆銘は「一面抵抗・一面交渉」を唱え、塘沽協定で満洲国を黙認するなどの対日宥和政策を貫いたために政府内や世論の批判が強まり、1935年(民国24年)11月1日には汪兆銘狙撃事件が発生した[3]。汪兆銘は行政院長を辞任して療養のためヨーロッパに渡り、蔣介石が後任に就いた[4]。