沢本盛弥 From Wikipedia, the free encyclopedia 沢本 盛弥(さわもと もりや、旧字体: 澤本 盛彌、生没年不詳)は、江戸時代末期の武士、日本の陸軍軍人。 盛弥は仮名(通称)、諱(実名)は幸則「ゆきのり」。土佐藩士。 迅衝隊士六番隊銃手として戊辰戦争に従軍[1]。後に大日本帝国陸軍軍人となる。文献によっては沢本守也と表記。北光社の沢本楠弥は同族[2]。 沢本氏(澤本氏)の祖は彦右衛門といい、戦国時代に大津城 (土佐国) 城主天竺孫四郎に仕えていたが、細川氏の庶流天竺氏は長宗我部国親に滅亡させられた。江戸時代になり、4代目藩主山内豊昌[注釈 1]から土佐藩に仕えた一族と伝わる[3]。それ以外の一族末裔は全国に拡散した[2]。 生涯 土佐国長岡郡介良村出身。 会津戦争の二本松陣営にて、沢本盛弥(以下沢本)を含めた新政府軍の兵士三人が民家で飲酒をしてしまい、軍法違反となった。秋沢清吉に咎められた沢本は、(この場で処刑されるのではなく)国のために命を懸けたいと堂々と返答した。すると処刑は免れた。 板垣退助に安岡養之助(安岡覚之助)[1]が米沢藩勧降書(文案者は岩崎馬之助)を提出した。小笠原謙吉を含めた三人で協議し、米沢藩に降伏勧告する使者として、沢本を派遣することにした。 慶応4年(1868年)8月15日、谷干城と伴権太夫に(米沢藩に拒否されたら命はないだろうと)諭された沢本は米沢に向かった。すると同年8月18日に無事に到着して歓待を受けた。更に同年9月4日に米沢藩は新政府軍に降伏し、その証として出兵を約束。命懸けの任務を遂行した沢本は、報告のため二本松に戻ったあと再び米沢に向かい、米沢藩の一小隊と共に会津城攻めを行う新政府軍に合流した。 明治4年(1871年)4月4日、戸籍法が制定されて以降、沢本幸則(澤本幸則)と称した[4]。 明治6年(1873年)2月23日、佐倉城郭跡地の兵営建設のため、井上二郎八、大庭国介、徳久元成と共に陸軍省から出張を命ぜられた[5]。 令和4年(2022年)2月13日、放映のテレビ番組「ナニコレ珍百景」で、沢本家(澤本家)の家系図が「歴史的に貴重な360年19代の家系図 高知県高知市」として紹介された[6]。 脚注 注釈 ↑ 清水昭典氏は「山内豊信」とするが、4代目の土佐藩主は山内豊昌。 出典 1 2 島内登志衛「谷干城 東征私記」『谷干城遺稿 上』靖献社 1912年 140頁 1 2 澤本嘉郞「澤本家系圖」1982年12月 東京帝国大学(現東京大学)社会学研究室所蔵 ↑ 清水昭典「自由民権家澤本楠弥と北海道植民会社「北光社」の経営」『札幌法学 第9巻1号』札幌大学法学部 1997年9月 3頁 ↑ 高知縣護國神社 ↑ 宮地正人「佐倉歩兵第二連隊の形成過程」国立歴史民俗博物館研究報告 第131集 2006年3月 32頁 ↑ これまでの放送 2022年2月13日放送 - ナニコレ珍百景公式ウェブサイト(テレビ朝日) 参考文献 長谷川伸「私眼抄~土佐の兵・沢本盛弥~」『長谷川伸全集 第十巻』朝日新聞社 1971年8月15日 369頁 Related Articles