長宗我部国親
戦国時代の土佐国の大名
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生涯
永正元年(1504年)、長宗我部兼序の嫡男として生まれる[注釈 1]。幼名は千雄丸(せんゆうまる)で、のちに土佐守護を兼ねる室町幕府の管領・細川高国より偏諱(「国」の字)を受けて、国親と名乗る[注釈 2]。
永正6年(1509年)、父の兼序が本山清茂などに攻められ敗死し[3]、居城の岡豊城は落城した[3]。落城にあたって、兼序は国親を城から脱出させた。国親はこの時6歳であった(『長元物語』)[4]。国親は家臣の近藤某に伴われ、幡多荘中村に赴き、土佐一条氏を頼ったとされる[4]。
永正15年(1518年)、一条房家の仲介により、本領の江村・廿枝郷を戻されて岡豊城に復帰し、以後は長宗我部氏の再興に尽力した[5]。しかし、近年の研究によると、兼序は本山氏などに岡豊城を攻められた際に自害せず土佐国内に亡命しており、永正8年(1511年)に本山氏や山田氏と和睦して岡豊城主に復帰、永正15年頃に息子・国親へ家督を譲っている[6]。国親は吉田孝頼を登用して内政や軍備の充実に努めた。
天文13年(1544年)、かつての仇敵である本山清茂の嫡男・茂辰と自分の娘を婚姻させた[注釈 3]。
天文16年(1547年)[注釈 4]、久武昌源、吉田重俊、中島親吉らを先鋒に、800騎を率いて、近隣の大津城を攻めて天竺孫十郎(天竺氏)を滅ぼした[7]。次いで大津の南にある介良城の横山友隆を屈服させ、下田(しもだ)の勇猛で名高い[注釈 5]下田駿河守を討って、下田城を落とした[8]。さらに、下田城が落城したことで、下田駿河守を支援していた徳善城主の公文重忠や布師田金山城主で一宮高加茂大明神の神職であった石谷重信(石谷氏)が国親に和議を申し込み、国親に降伏した[9]。また、細川定輔(十市細川氏(とうちほそかわし))を屈服させ、定輔の次男・池頼定も子の池頼和に娘を与えることで懐柔した[10]。こうして、長岡郡南部を制圧した。また、父を滅ぼした仇敵の山田氏を天文18年(1549年)秋に滅ぼした。
当時、畿内では細川晴元と細川氏綱の争いが起きており、土佐にもそれが波及し、土佐国人も晴元派と氏綱派に二分されていたとみられる[11]。国親の一連の軍事行動は晴元派としてのものであり、自身の勢力拡大とあわせ、氏綱派の討伐を行っていたようである[11]。
天文年間末期、国親は剃髪入道し、瑞応覚世と号した[12][注釈 6]。
弘治2年(1556年)、三男の親泰を香宗我部親秀の養子として従属化し、土佐国人の従属化を進めていくと同時に、現在の高知平野に当たる部分の制圧も成し遂げていった。
弘治元年(1555年)、本山清茂が病死し、娘婿の茂辰が後を継ぐと、本山氏を討つべく兵を挙げた[注釈 7]。
弘治2年(1556年)、国親は本山家臣の秦泉寺氏(じんぜんじし)を服属させ、さらに大高坂氏や国沢氏も討った。
『土佐物語』によると、永禄3年(1560年)、岡豊より長宗我部方の兵糧を積んだ船1艘が種崎に向かったが、その途中で潮江より本山方の船2艘が漕ぎ出して襲撃し、兵糧を奪った[15]。そのため、国親は報復のために元家臣だが訳あって本山方についていた建築の達人である福留左馬丞を甘言で誘い、長浜城の城門を簡単に開くように工作させたうえでに夜討ちをかけて、5月26日に長浜城を攻略した[16]。茂辰は朝倉城に2000余の軍を集めて長浜城奪還を目指したが、国親軍1000人の奮戦により、5月27日に兵力で勝りながら敗れ、浦戸城も国親の支配下に入った[16]。
しかし、国親は直後に病を得て、6月15日に死亡した[17]。享年57[17]、59歳とも伝えられる[17]。家督は嫡男・元親が継いだ。