河内一彦
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河内一彦(かわち かずひこ)は北九州市出身の飛行士。1925年に日本初の訪欧飛行を行った4人のうちの一人。
福岡県企救郡中谷村で1901年(明治34年)8月5日に生まれる。航空局陸軍依託第一期生の試験に合格[注釈 1]。訓練を受け、1922年(大正11年)に一等飛行機操縦士免許を取得した[1]。
この頃、イタリア、イギリス、アメリカからの訪日飛行[注釈 2]に刺激を受け、朝日新聞社主催で我が国初の訪欧飛行が企画される。1924年(大正13年)6月、パリからインド経由で飛行してきたフランスのドワシー大尉来日の際、朝日新聞社に所属していた一彦は上空で出迎え、所沢陸軍飛行場へ誘導した[注釈 3]。その後、一彦は訪欧飛行計画の操縦者に決定[3][注釈 4]。使用機2機は共に仏製のブレゲー19と決まり、中島飛行機製作所にて長距離用に改装された。公募の結果、機体名は「初風」「東風」となる[4]。シベリアを通過し欧州へ向かう計画であったが、ロシア・ソビエト政府より拒否の返答があり難航。朝日新聞社は南方ルートも考えたが、専務の下村と駐日大使との交渉の結果、シベリア鉄道沿いのコースでモスクワ訪問飛行とする等の条件付きでやっと許可が下りる。各中継地にそれぞれ日本から人員を送り、ウラル山麓では飛行場を新設するなど準備を重ねた[4]。
1925年(大正14年)7月25日[5]、東京代々木練兵場には皇族や各国大使、陸海軍や財界、航空関係者など、2千人の来賓が集まって出発式が執り行われた。安辺と篠原の初風(はつかぜ)号、河内と片桐の東風(こちかぜ)号は午前9時7分に離陸。11時半に大阪へ到着し、初風号のマグネット不調の為、その日は両機とも大阪泊となった。その後、太刀洗、平壌、ハルビン、チタ、イルクーツク、クラスノヤルスク、ノボニコラエフスク、クルガン、カザンを経てモスクワへ到着。東京から9,855km、30日間の飛行であった[注釈 5]。改めてここから先を第2期区間として飛行許可を申請し、同年9月15日にモスクワを発つとケーニヒスベルクを経て18日にベルリン、28日にはパリに到着。2機がフランス機ということもあり大いに歓迎された[注釈 6]。
第3期として10月12日にパリを出発し、ファーンボローを経て15日にロンドン着。19日に同地を発つと、ブリュッセル、リヨンを経て、東京出発から94日後の10月27日に最終目的地であるローマに到達した[注釈 7]。この際、先に訪日飛行を成功させたフェラリン中佐がアルプス上空まで出迎えるなど、国を挙げての大歓迎を受けた。またイタリアのみならず各国で元首らと面会し、複数の勲章なども授与されている[4]。
2機は解体して船積みされ、4人は11月28日の鹿島丸でマルセイユから帰国の途に就き、各寄港地でも歓迎攻めにあいながら1926年(大正15年)1月5日に神戸港へ入港。「空の四勇士」と称され[7]、より一層大歓迎された4人は逓信大臣代理より叙勲の伝達を受けた[注釈 8]。
その後、一彦は1927年(昭和2年)一等航空士資格を取得。1928年(昭和3年)2月にはフランスの国際航空協会より1926年度のハーモン・トロフィーが安辺浩と河内一彦に贈られた[8]。1933年(昭和8年)朝日新聞社にて航空部次長に就任[1]。1941年(昭和16年)には長年の功労に対し逓信省より航空有功章を受章している。1942年(昭和17年)10月、朝日新聞は航空本部を設立し、一彦は本部長に就いた。1945年(昭和20年)8月に第二次大戦が終戦を迎えると、GHQの方針により新聞各社の航空部もすべて解散となる。同年10月2日、満44歳で病没[9][10]。
脚注
注釈
- ↑ 同期に中尾純利や小川寛爾、国枝実など。
- ↑ イタリアが1920年5月、英米が1923年10月に、それぞれ世界一周飛行または日本訪問飛行を発表した[2]。
- ↑ 朝日新聞社は歓迎として東西定期航空会の飛行機を2機を飛ばし、河内一彦と大蔵清三がそれぞれ操縦した[2]。
- ↑ 陸軍航空関係当局をはじめ各方面の後援を受け、45万円の予算が組まれた。操縦士は逓信省航空官の安辺浩陸軍大尉と朝日新聞所属の河内一彦、機関士は篠原春一郎と片桐庄平の計4名[4]。
- ↑ 実飛行日数は13日、飛行時間は65時間[4]。
- ↑ 代々木で彼らを見送った田中舘愛橘博士は直後に汽船で渡欧し、パリでの歓迎会にも姿を現して4人を驚かせた[4]。
- ↑ 飛行総キロ数17,403kmを所要日数95日、飛行実日数28日、飛行総時間116時間21分で達成した[6]。
- ↑ 安辺は勲四等旭日小綬章、河内は勲六等単光旭日章、篠原と片桐の両機関士は勲七等青色桐葉章となっている[4]。
出典
- 1 2 『航空年鑑』(昭和8年)帝国飛行協会、1933年、404頁。NDLJP:1177389/249。
- 1 2 朝日新聞社大阪本社社史編集室 編『村山竜平伝』朝日新聞社、1953年、788-789頁。NDLJP:3022823/442。
- ↑ 本多助太郎『朝日新聞七十年小史:創刋七十周年記念』朝日新聞社、1949年、229頁。NDLJP:10297154/135。
- 1 2 3 4 5 6 7 『汎交通』74 (6)、日本交通協会、1974年6月、27-32頁。NDLJP:2793226/15。
- ↑ 『毎日年鑑』(1942版)毎日新聞社、1941年、(世界長距離飛行記録) 305頁。NDLJP:3006393/157。
- ↑ 井田博 (1993年12月31日). 日本昭和航空史. モデルアート社
- ↑ “kochikazegou of kitakyushu-guide”. kitakyushu-guide. 2018年11月15日閲覧。
- ↑ 朝日新聞社大阪本社社史編集室 編『村山竜平伝』朝日新聞社、1953年、1077頁。NDLJP:3022823/597。
- ↑ 『朝日新聞の九十年』朝日新聞社、1969年、60頁。NDLJP:12274074/296。
- ↑ 『新聞航空史』星山一男、1964年、131頁。NDLJP:2506910/72。
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