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河瀬真孝

幕末の長州藩遊撃隊総督、明治時代の外交官 From Wikipedia, the free encyclopedia

河瀬 真孝(かわせ まさたか、天保11年2月9日〈1840年3月12日〉- 大正8年〈1919年〉9月29日[1])は、明治期の日本の外交官[2]。はじめ石川新五郎、石川 小五郎(いしかわ こごろう)と称し、のちに河瀬真孝、河瀬安四郎と改名。位階勲等は正二位勲一等、爵位は子爵。

河瀬真孝(石川小五郎)

生涯

周防国吉敷郡佐山に、長州藩士の子弟として生まれる。長門国萩城下の明倫館に学ぶ。文久2年(1862年)、撰鋒隊(先鋒隊)に入隊 。文久3年(1863年)の朝陽丸事件での幕府使節団暗殺の首魁とされる。元治元年(1864年)、御楯隊に入隊。禁門の変では、戦死した来島又兵衛の指揮権を引き継いで遊撃隊の指揮を執り、のちに遊撃隊総督となる。慶応元年(1865年)、高杉晋作による功山寺挙兵では、遊撃隊を率いて参加。第二次長州征伐では芸州口を攻撃するなど活躍した。

慶応3年(1867年)、トーマス・ブレーク・グラバーの協力の下イギリスに渡り、明治4年(1871年)まで滞在する。帰国後は工部少輔、ついで侍従長に就任するも、明治6年(1873年)にはイタリア、オーストリアに赴任。在任中にヴィンチェンツォ・ラグーザを工部美術学校彫刻科の講師(お雇い外国人)での在日招へいに成功している。明治16年(1883年)、司法大輔。明治17年(1884年)より明治26年(1893年)まで公使としてイギリス在住。1887年(明治20年)5月24日、子爵を叙爵。1894年(明治27年)に枢密顧問官となり、死去まで務めた。墓所は青山霊園(1イ3-3)。

栄典・授章・授賞

位階
爵位
  • 1887年(明治20年)5月24日 - 子爵[7]
勲章等
さらに見る 受章年, 略綬 ...
受章年 略綬 勲章名 備考
1887年(明治20年)11月25日 勲二等旭日重光章[8]
1894年(明治27年)12月26日 勲一等瑞宝章[9]
1901年(明治34年)12月27日 旭日大綬章[10]
1912年(大正元年)8月1日 韓国併合記念章[11]
1915年(大正4年)11月10日 大礼記念章[12]
1919年(大正8年)1月10日 御紋付銀盃[13]
1919年(大正8年)9月29日 旭日桐花大綬章[14]
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家族

  • 妻:河瀬 英子…(かわせ ひでこ、1855年 - 1911年)旧名・清。江川英龍二女。明治4年10月、木戸孝允の養女となり、河瀬に嫁いだのち、英子と改名。イギリス赴任中は留学生の世話をし、イタリアでは通訳を介さず国王と会談するなど、賢夫人として知られた[15]。
  • 三男:河瀬真(海軍少将、貴族院子爵議員)[16]

脚注

参考文献

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