河野千鶴子

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河野 千鶴子(こうの ちづこ、1946年[1]-2013年5月23日)は日本登山家看護師七大陸最高峰8000メートル峰5座に登頂した(衛星峰を含む)。日本勤労者山岳連盟理事も務めた。2013年5月23日ダウラギリで遭難し死亡した[2]

登頂歴

鹿児島県の出身。東京都練馬区在住。子育てが一段落した1997年に、20代の時の趣味であった登山を再開した[3]。約1年間ほどは埼玉や長野の山への日帰りトレッキングを1人で楽しんでいたが[3]1998年8月に群馬県尾瀬の下山途中に出会った女性に誘われて、練馬区の登山愛好家グループ「練馬山の会」に加わった[3]。それ以前はハイキングの程度の経験しかなかった[4]

以後、本格的に登山を開始。「夫婦ゲンカの憂さ晴らしが(登山の)きっかけ」であると本人は講演会などで述べていた[2]。1999年から東京労山の海外登山隊に参加[4]。53歳で初めて海外登山(ネパール)を体験し[1]、5000m級の山に登った[3]。以来毎年のようにネパールやスイスの5000-6000m級の山々に登山するようになった[3]助産師看護師資格も所有し[1]県立鹿児島保養院国立京都病院日本大学医学部附属板橋病院日本大学医学部で勤務した。子供は2男1女をもうけた[1]。看護師としての経歴は23年間だが[3]、2004年のエベレスト登山のために2002年3月末で看護師を退職[3]。退職金を2004年のエベレストへの遠征登山費用に充てた[3]。夫は建設機械の修理・リース業を営み、遠征のための長期間の留守も理解し支援した[3]

以上 出典は[1][7]

日頃のトレーニングとして、ノルディックウォーキング1 時間、10kgの重りを背負った状態での家事などを実施していた[1]三浦雄一郎を真似て両足に1.5kgの重りを付けて1時間歩くなどもしていた[3]。登山専門医と協力して体調管理を行い、登山本番はシェルパと酸素ボンベを活用するスタイルで、中高年でも高峰登山への道は開かれているとした[1]。ネパールの子供たちに学校建設プロジェクト「岳夢舍楽(がむしゃら)」代表や東京都勤労者山岳連盟練馬山の会会長も務めた[7]

エベレスト登頂

2004年のエベレスト挑戦は、2004年3月下旬にネパール入りし、2ヶ月間麓で高地順応を行った[3]。シェルパ3人や別の登山者ら合計9人と5月17日ベースキャンプを出発し[3]、途中3箇所にキャンプを設置した[3]。5月20日早朝に最終キャンプを出発したときは満天の夜空に囲まれていたが[3]、同日午前11時14分に登頂に成功したときは吹雪となり周囲は殆ど何も見えない状況であった[3]。河野は「登った喜びよりも、疲れと『ケガしないように下山しないと』という思いが強かった」と述べている[3]

シシャパンマでの遭難

2009年秋にシシャパンマに挑戦したが天候の悪化の為に登頂断念している。2010年6月に再挑戦して中央峰に登頂成功したが、深雪に行動を阻まれて登頂予定時間を大幅に超過し酸素を使い果たした。そのため下山中に標高7300mの最終キャンプまで30分のところで行動不能となった[1]。2人のシェルパは雪の中に河野を置き去りにして去ってしまうが、その後アメリカ隊のシェルパに救助され生還した[1]

ダウラギリでの遭難

2013年4月7日に日本を出発、4月18日にダウラギリのベースキャンプに入り、北東稜から登山する予定であった[2]。出発前には今回が最後の8000m峰への登山になるとしていた[8]。日本勤労者山岳連盟に提出された計画書では5月5日に登頂予定であったが、天候の状況により計画に遅延がでていた[2]。河野は2人のネパール人シェルパを従えて3人で山頂を目指した[2]。5月23日午後8時頃に山頂まで120mの地点まで到達したが、河野の体調が悪くなり登頂を断念して引き返した[2]。しかし吹雪によって登山ルートが埋没してしまい体力を消耗[2]。同日午後10時頃に標高7700m付近で河野は力尽きて死亡した[2]。シェルパ2人は河野の遺体を運ぼうとしたが1人が途中で滑落して行方不明となり運搬を断念、生き残ったシェルパ1人だけが5月24日にベースキャンプに戻った[2]。河野の没年齢は66歳とする出典と67歳とする出典がある。

特記事項

出典

関連項目

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