河野李由
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李由は伊予河野氏の末裔と伝えられる。寛文2年(1662年)に生まれ、かねてから松尾芭蕉の風雅を慕い、修行中に法用と称して元禄4年5月1日(1691年5月28日)京都嵯峨野の向井去来別荘落柿舎で「嵯峨日記」執筆中の芭蕉を訪れ入門した[1]。
蕉門十哲の一人森川許六は度々明照寺に遊び、芭蕉も李由入門直後に寺を訪れた[2]。芭蕉と李由の師弟関係は「師弟の契り深きこと三世仏に仕ふるが如し」と伝えられている[3]。芭蕉死去後、渋笠を形見に貰い受け、明照寺境内に埋め笠塚を築いた[2][3]。
元禄15年(1702年)、森川許六と共に「韻塞(いんふたぎ)」、「篇突(へんつき)」、「宇陀の法師」を編む[4]。その後、宝永2年6月22日(1705年8月11日)李由死去する。生前明照寺の庭に4本の梅の木があることに因み「四梅廬」と、また「月沢(つきのさわ)同人」とも称した[2][3]。