泉芳朗
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鹿児島県大島郡伊仙村生まれ[1]。1924年3月、鹿児島県立第二師範学校(現・鹿児島大学教育学部)卒業[1]。卒業後は、小学校の教員として鹿児島と東京の学校を転々とした[1]。1931年、日本大学専門部国文科中退[1]。
1950年8月、奄美大島社会民主党を結成し、書記長、中央執行委員長を歴任した[1]。同年、群島議会議員選挙に同党公認で立候補したが、次点で落選した[4]。1951年2月、奄美大島復帰協議会を結成して、議長となった[1]。同年8月1日から5日まで日本復帰の断食祈願を行った[1]。その後、奄美各地で決起集会が開かれ、参加者が24時間の断食を行うなどの広がりを見せた[5]。1952年、祖国復帰郡民大会で日章旗の掲示を行った[5]。その影響で、情報官から数回取り調べを受けた[1]。
同年9月16日に名瀬市長に就任し、「祖国復帰運動」を行った[1]。そして、1953年12月25日に奄美群島は日本に復帰した[1]。1954年1月8日に市長を辞任した[6]。その後、復帰後初めて実施される衆議院議員選挙に立候補した[7]。右派社会党公認で立候補したが、定数1に対し8人が立候補し、全立候補者が法定得票数を獲得出来ず、再選挙となった[8]。再選挙では、自由党の保岡武久に敗れた[9]。1955年の第27回総選挙には立候補しなかった[10]。1958年の第28回総選挙には社会党公認で立候補したが、再び保岡に敗れた[11]。