泉詩郎
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8人兄弟の末っ子で、両親は荒物商を営んでいた。岡山商業高校(現在の岡山東商業高等学校)卒業後、来阪して活動弁士の泉浩一路に師事し、1924年に道頓堀朝日座で初舞台。無声映画時代の名弁士として活躍し、「東に夢声あり、西に詩郎あり」と称された[1]。トーキー化以降は自身の名を冠した団員数30人近あまりの大所帯の泉詩郎歌謡楽団を結成。戦後はボーイズ物泉詩郎歌謡ショウと称して寄席や劇場に進出すると共に、映画・歌謡曲の解説をした。全盛期のころの歌謡ショウのメンバーに大島千鶴、菅原みよじ、藤原博がいた。
独特の甲高い声と歌手の持ち歌に歌謡物語を作り、映画説明をするのが特徴。1933年、リーガルレコードで活動を行う。1941年、テイチクレコードに移籍し、1955年頃に引退。
1978年、兵庫県の病院にて死去[1]。享年76歳。