泉靖一
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- 出生から修学期
1915年、東京府雑司ヶ谷で政治経済学者の父・泉哲、母・ハツヨの長男として出生。本籍地は北海道夕張郡角田村(栗山町の前身)。東京市青柳尋常小学校に入学したが、4年次に豊島師範学校付属小学校に転入。6年次の時に朝鮮半島に渡り、京城府公立東大門尋常小学校に転入。京城公立中学校、京城帝国大学予科を経て、京城帝国大学法文学部に進学。当初は文学科所属であったが、のち哲学科に転科し、卒業。
- 文化人類学研究者として(戦前)
卒業後は、京城帝国大学法文学部助手に採用された。その後、同大学理工学部助手兼書記、同大学学生主事補、同大学大陸資源科学研究所嘱託を務めた。京城帝国大学法文学部助教授に昇格したが、太平洋戦争の敗戦による朝鮮統治の終了と大学の閉鎖のため、福岡市博多へ引き揚げた。
- 太平洋戦争後
占領期の数年間は、博多の聖福寺境内に設置された在外同胞援護会救療部に勤務[1]。
1949年4月、明治大学政治経済学部助教授に就いた。1951年11月、東京大学東洋文化研究所助教授に転じた[2]。東洋文化研究所での同僚には、考古学者の江上波夫がいた。1955年4月に東京大学教養学部へ配置換えとなった。1962年4月には石田英一郎と入れ替わるかたちで、東洋文化研究所に配置換えとなり、1964年11月に同研究所教授に昇任した。1970年4月に同研究所長となったが、学園紛争の処理などもあり多忙を極めた。この頃、梅棹忠夫らと共に国立民族学博物館設置に向けて活動した。開館後の初代館長に内定していたが、同年11月15日に脳出血で急逝[3]。なお国立民族学博物館は、泉の死からちょうど7年後の1977年11月15日に一般向け開館となった。
受賞・栄典
- 1962年:毎日出版文化賞を受賞。『インカの祖先たち』に対して。
- 1976年:日本エッセイスト・クラブ賞を受賞。『フィールドノート:文化人類学・思索の旅』に対して。
- 正四位勲三等旭日中綬章を受章。