泉麟太郎

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泉 麟太郎(いずみ りんたろう、1842年天保13年4月21日〉 - 1929年昭和4年〉1月7日)は、北海道栗山町の前身である角田村の開祖。

誕生

1842年天保13年4月21日)、陸奥国伊具郡角田にて、陸奥石川氏に仕える添田保の子として生まれる[1]。幼名は拙之助[1]

成教堂で経史を修めた拙之助は、生徒たちに書物の読み方を教える「句読役」を命じられ、さらに仙台への遊学を経てからは、成教堂目付兼武頭役に就いた[1]

1864年元治元年)8月1日、角田藩重役の泉靖七郎の養子となり、10月6日には藩主・石川義光から「麟太郎」の名を賜る[2]

戊辰戦争における敗北

1868年慶応4年)に戊辰戦争が勃発すると、仙台藩一門の筆頭格たる石川家は、はじめ仙台の警備にあたっていた[3]。しかしその後、戦闘の激化に伴い、石川家は白河口の戦いに参じることとなった[4]。5月17日、武頭さむらいがしらの麟太郎は、100人ほどの先陣を率いて進発し、次いで5月20日には藩主・石川邦光も出陣した[5]

新政府軍と対立することで賊軍扱いされることを懸念した邦光は、積極的には戦闘に関わらず時局を見定めるつもりであったが、日光街道での戦いで新政府軍に押されて藤原に退いた列藩同盟軍から援兵を求められたため、2小隊を送ることにした[6]。麟太郎は、田中鼎助とともに隊を率いて西方山道を迂回し、途中で会津の山川太蔵の兵と合流して、6月6日に藤原の新政府軍へ襲撃を掛けようとしたものの、そのとき既に敵が引き上げていたため空振りに終わった[7]

石川家の兵は本営に戻った後、三春・棚倉・二本松などを転戦したが、不利な戦局を挽回することはできなかった[7]。二本松城が陥るとともに邦光は兵を撤退させ、自らも角田に帰ったが、再度出陣するよう藩命を受け、5小隊を率いて筆甫の守備に就いた[7]。角田の兵は筆甫を攻めた新政府軍を撃退する活躍を見せたが、9月15日に仙台藩が降伏を決め、9月22日に会津城が陥落したことで、一連の戦いを終えた[8]

室蘭の開拓

明治維新を経た1869年明治2年9月)、石川邦光は北海道室蘭郡の支配を命じられる[9]。同年旧暦11月、邦光は泉忠広と麟太郎を連れて室蘭に渡り、現地に忠広を残したうえで、いったん麟太郎とともに帰郷した[9]

1870年(明治3年3月6日)、麟太郎は北海道移住の第1陣となる51名を率いて角田を発ち、寒風沢港で「長鯨丸」に乗船すると、函館港を経由して、旧暦4月6日に室蘭に着いた[9]

移住を主導する幹部陣の顔触れは、開拓執事が泉忠広と木幡省左右、開拓助勤は麟太郎の実兄にあたる添田龍吉で、麟太郎自身は開拓監事であった[10]。一方、移住民51名の内訳は、男子46名に対し女子5名であり、家族同伴で北海道に来たのは4戸に過ぎなかった[11]。翌1871年(明治4年)には郷里の残留家族が合流したため、総勢は男子58名・女子15名となったが、家族同伴での移住者はわずか10戸に留まり、独身男性が多くを占める構図は変わらなかった[11]

この後には石川邦光が率いる移住の第2陣が続くはずだったが、「未知の原野に挑むくらいなら、故郷で帰農したほうがまし」という意見が主流となり、出発する前に崩壊してしまった[11]。明治政府は石川の支配を解くと、すでに移住した者たちは片倉伊達に分割支配させることとした[11]

この知らせを受け取った室蘭の移住者たちは大いに失望し、脱落する者も出た[11]。そもそも移住先の千舞別や輪西の土地は石が多く、耕作向きではなかった[11]。そのうえ米価が値上がりして1俵7 - 8円にもなったので、彼らは安い広東米を買い、粥にして飢えをしのいでいた[11]。味噌や醤油も買えなかったので、汁物は海水でこしらえたという[11]。そこに来て故郷からの増援が絶えたとあっては、片倉や伊達から与えられるわずかな補助では、とても生活を支えられなかった[11]

1871年(明治4年7月)、麟太郎は壮健な者10名を選んで本願寺道路の改修工事に志願し、働くこととした[12]。さらに麟太郎はホタテや酒を売り歩き、札幌での日雇い仕事もこなして500円を稼ぎ出すと、翌1872年(明治5年5月)に移住地へ帰還し、一同の生活を立て直した[12]

そのころ室蘭郡は開拓使の直轄となり、泉忠広が開拓一等属移民取締に任じられた[12]。移住者たちは開拓使貫属となり、士族としての家禄は与えられなかったものの、移民扶助規則に基づいて、3年間は米・味噌・塩が支給されることとなった[13]。最低限の生活の目途が立ったことで、移住者たちは旧主・石川邦光を迎えるべく、麟太郎を交渉委員として角田に送った[14]。邦光は先に罷免されたことを理由として室蘭行きを渋ったが、同席していた弟の石川光親が、代わって自ら移住を志願した[15]

1873年(明治6年)1月、麟太郎が光親と新規の移住者3戸を伴って室蘭に帰ると、一同は大喜びしたが、まだ13歳という若さの光親の身の上を心配する声も挙がった[16]。そこで一同は協議のうえ、同年2月に光親を東京の慶應義塾へと遊学させ、その学費は全戸で負担した[16]。光親は卒業後、いったん函館の学校で勤務したのち、1875年(明治8年)9月に室蘭へと帰還した[16]

1880年(明治13年)12月14日、光親は亡父の七年忌法要に出席するため角田に戻る[16]。このとき同伴した麟太郎が、故郷の者たちに再び北海道移住を呼び掛けたところ、77戸300人が前向きに応じた[16]。彼らの移住に備えるため、麟太郎はさらに開拓使東京出張所まで足を延ばし、米や金などの扶助を申請した[17]

1881年(明治14年)2月に光親らが角田まで出向いたところ、16戸の脱落者が出たものの、61戸211人が開拓の第2陣として移住の決意を固めていた[18]。彼らは同年4月7日に角田を発ち、14日に宮城県下潜ケ浦から汽船「住ノ江丸」に乗り込むと、16日に室蘭へとたどり着いた[18]。折悪しく蔓延したコレラや、前年から引き続いた蝗害に苦しめられたものの、事前に手配しておいた開拓使からの扶助のおかげで、第1回の移住よりは比較的安心して仕事に打ち込むことができた[19]。同年7月、麟太郎は戸長に就任する[20]

こうして室蘭の開拓は軌道に乗り始めたが、第2陣の加わった移住者集団は300人を大きく超える規模に達しており、麟太郎は農地の狭隘を案じていた[21]。そのうえ1887年(明治20年)には、110戸528人が室蘭屯田兵として近隣に移住してきたため、ますます手狭になりつつあった[21]

アノロ原野の開拓

1887年(明治20年)11月、室蘭郡長の古川浩平は、郡書記を務めていた石川光親に対して室蘭における農業の限界を指摘するとともに、夕張郡馬追原野の将来性について語った[22]。この話を光親から伝えられた麟太郎は、翌1888年(明治21年)3月に夕張開墾起業組合を発足させ、その社長に就任した[22]。この組合は「資本株」と「労働株」から成り、資本株は毎月3円ずつを3年間出資して成墾後の耕地10町歩の配当を受け、労働株は米・味噌・石油・農具などを支給されて開墾に従事し、5年後に5町歩の土地を得るというものである[22]

同年5月3日、麟太郎はふたりの青年を伴って室蘭を発ち、組合が貸下げを受けたアノロ原野の土地選定に向かった[23]。彼ら3人は白老に1泊し、次いで千歳の駅逓所に宿泊したのち、5月7日にはアイヌの案内で馬追原野フルサンに出ると、古川郡長の開墾地に建てられた草小屋に泊まった[24]

予定では翌5月8日にアノロ原野へ入るつもりであったが、雪解けで増水した夕張川を渡ることができなかったため、減水を待つことにした[25]。先発隊の3人が足止めされているうち、5月11日には後発組の家族連れ18人が追いついてきたが、一同そろって夕張川畔で野宿を続けるしかなく、「家に帰ろう」と泣き出す幼児を「ここが家なんだよ」と諭す母親自身も涙にくれたという[25]

5月16日になってようやく、アイヌの下夕張鉄五郎が操る丸木舟でひとりずつ川を渡ることに成功し、上陸地点のアノロ川が夕張川に注ぐあたりから1キロほど内陸に入った場所で、一同は小屋掛けに着手した[25]。翌日からは原野を焼き払って開墾を始めたが、麟太郎には戸長事務の後処理が残っていたので、3日ほど経ったのち、いったん室蘭に戻った[26]

アノロ原野への移住者たちは、札幌から千歳経由で米を仕入れていたが、夕張川はたびたび増水して物資の搬入路を途絶させ、彼らを飢えで苦しめた[26]。そのような時はアイヌ常食のウバユリの根を掘り起こし、そのデンプンをフキやワラビと混ぜた団子を作って凌いだ[26]。また、冬になると、千歳から米を背負って4日がかりで雪道を進まねばならなかった[27]

1889年(明治22年)10月、麟太郎は私費150円を投じて岩見沢への道路を開削し、物資の補給路を確保した[27]。彼はさらに180円を費やして、夕張炭山道路への接続路も切り開いた[27]

角田村の成立

アノロの開拓地は当初由仁村に属していたが、1890年(明治23年)5月に独立することとなり、移住者たちの故郷にちなんで角田村と名づけられた[28]。当時の居住者は、62戸287人であった[29]

麟太郎は夕張開墾起業組合を基にして新たに「真誠社」を設立し、角田と長沼の開拓を進めた[29]。真誠社の株主である札幌の高瀬和三郎は、そのころ発展しつつあった水田の有利性に着目し、これを受けて麟太郎は1893年(明治26年)に総会を召集した[29]。総会では麟太郎と高瀬に水田を試作させることが決まり、農学者の酒匂常明の支援を受けた麟太郎は好成績を示すことができた[30]

造田の動きは村中に広まっていき、1895年(明治28年)の角田村総会では、麟太郎を工事委員長とする水利組合の設立が決定された[31]。アノロ川からの引水による130町歩の造田が成功したのちは、夕張川からの引水が村営工事として計画され、麟太郎は東京に出向いて勧業銀行から4万円の融資を受けた[31]。工事が難航したために追加融資が必要となったものの、1900年(明治33年)には灌漑面積894町歩が完成した[31]

1906年(明治39年)、麟太郎は藍綬褒章を受ける[32]

1920年(大正9年)に北海道産米が100万石(15万トン)を達成した祝賀の場では、北海道庁長官の笠井信一から表彰され、長年の労苦をねぎらわれた[32]

1929年(昭和4年)1月7日死去。角田村民1万5千人は村葬をもってその功績に報いた[33]。享年88(満86歳没)。

系譜

脚注

参考文献

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