西洋館
西洋の建築様式を用いた建物
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様々な西洋館
- 居留地建築など
- 長崎、横浜、神戸など外国人の居留地には、外国人の住宅(異人館)、事務所、学校、教会などが建設され、従来の日本とは異質な街並みが生まれた。これらは外国から技師・技術者が来て建設したものだけでなく、日本人の職人にデザインなどを指示して建設したものもある[2]。
- 擬洋風建築
- 居留地建築に刺激を受けた日本の大工棟梁は、見よう見まねで西洋のデザインを採り入れた事務所、ホテル、学校などを建設した[3]。伝統的な職人の技術をベースに洋風要素を採り入れたこれらのものを擬洋風建築と呼ぶ[4]。
- 外国人技師の建築
- お雇い外国人の指導により建設された工場、都市建築などがある。銀座煉瓦街、富岡製糸場などはその代表的なものである。
- 日本人建築家の作品
- お雇い外国人ジョサイア・コンドルが日本人にはじめて本格的・体系的な建築教育を行い、辰野金吾らの日本人建築家を育成した[5]。正規の教育を受けた建築家が中心になり、ヨーロッパの建築様式を採りいれ、官庁や事務所、住宅などの西洋館が建設されるようになった[6]。(東京駅など規模の大きなものは西洋館とは呼びにくいが、建築ガイド本などで総称して含める場合もある)。
- 宣教師館
- 宣教師館はキリスト教伝道のため、来日した外国人宣教師の住居として建てられた。教会堂やミッションスクールに併設され[7]、居留地外に全国広く分布した。多くの場合、商館主の住宅ほど華美でなく、本国の一般住宅をモデルに宣教師自身が間取りを考えて日本人棟梁が施工した[8]。
上記のような西洋館に刺激されて、次第に各地域でも地元の職人による西洋館が建てられるようになった。写真館や病院・医院、学校などでは西洋風のデザインが好まれた。
伝統的な和風住宅が圧倒的な時代に造られた西洋館には、エキゾチックなイメージと怪しげな雰囲気が醸し出され、しばしば探偵小説などの舞台になった(黒死館殺人事件など)。
西洋館の変容と終結
変容
明治以降の社会でも、一般的な住居は和風建築であった。一部の政治家や実業家などで、進んで西洋風の生活スタイルを採り入れるために西洋館を建設したものもいるが、天井が高く、開放性が低い西洋館での生活は四季の気温変化が大きく多雨多湿の日本の風土とは必ずしも適合しない面があり[9]、洋装で外出しても自宅では和服に着替えてくつろぐ当時の生活習慣と椅子を用いた洋式の住宅は相容れなかった[10]。
そこで、中廊下式の和風住宅の玄関脇に洋風デザインの応接間を追加した和洋折衷型の文化住宅が造らるようになった[11]。この形式は北田九一が1898年に『建築雑誌』明治31年12月号に「和洋折衷住家」として提唱した中流住宅に始まり[11]、阪神間や東京近郊の宅地開発とともに数多く建てられた。
終結
第二次世界大戦が終わると、生活スタイルは急激に変化し、住宅の形式も大きく変わった。西洋風の様式と、過去の様式を否定するモダニズム建築の影響も受けながら、日本の風土に合わせて工夫された、非伝統的なスタイルの住宅が、伝統的な和風住宅よりも優勢になってきた。欧米化が普及した今日、西洋風の外見で和室のない住宅であっても、西洋館と呼ぶことはない。和風住宅が一般的であった時代にあえて洋風の住まいを建てたからこそ、西洋館という呼び方をしたのだと考えられる。




