洛陽黄河公路大橋バスジャック事件

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洛陽黄河公路大橋バスジャック事件
場所 中華人民共和国の旗 中国河南省洛陽黄河公路大橋
日付 1987年1月17日
標的 バス
攻撃手段 64式手槍中国語版
死亡者 13
負傷者 3
犯人 趙暁東
攻撃側人数 1
対処 公安特警の創設
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洛陽黄河公路大橋バスジャック事件洛阳黄河大桥武装劫持人质案)は、1987年1月17日に中華人民共和国河南省で発生したバスジャック事件。

趙暁東(赵晓东)は、河南省の済源市出身で、同省の淅川県で育ち、18歳で中国人民解放軍に入隊した[1][2]。軍において、趙はバイクや大型トラックの運転に長けていたほか、運転手にとって必須ではない射撃でも優秀な成績を収め、軍務中に表彰を受けた[1][2]。しかし気性が荒く、上官との関係は良好ではなかったこともあり[2]、入党も昇進も果たせなかった[1]

両親が長年政府機関に勤務して高官の地位に就いていたこともあって、趙も、1983年末に除隊したのちは公務員としての道を歩み始め、1984年初頭には淅川県党委員会での勤務を開始、2年後には、23歳にして県青年団委員会常務委員および学生部長に昇進した[1]。しかし県党書記の交代に伴って、両親が予定より早く退職すると、後ろ盾を失った趙は、これらの役職を解任された[1][2]

1月4日午前1時頃、趙はもう1人の職員とともに県庁舎から古い籐の椅子とソファを持ち出そうとしていたところを、県党委員会の徐副書記に見咎められた[1]。趙は、これらの家具は不用品として廃棄されようとしていたものであり、周囲の同意のもとで引き取ろうとしたと主張したが、徐副書記は趙を厳しく叱責し、行政課長の王明麗を召喚して、規定に従って趙暁東を処罰するよう指示した[1]。趙は、これは自分を陥れようとする罠であると激怒し、まず午前4時頃、県党委員会事務局において、副書記の黄明陽が就寝しているところを襲撃して重傷を負わせ、64式手槍中国語版と90発以上の弾薬を奪取した[1]

拳銃を奪った趙は王課長の居室を襲撃し、応対した妻を殴打したのち、王課長を射殺した[1]。続いて徐副書記を探したものの、徐副書記は既に脱出して県公安局に駆け込んでいたため、難を逃れた[1]。趙は県党委員会事務局の建物に放火したのち、やはり以前から恨みを抱いていた外国貿易会社の経営者秦忠道の自宅に行き、夫婦を射殺して、逃走した[1]

逃走と捜査

事件の発生から終息に至るまでの13日間、当局は党、政府、軍、警察、民兵から8万人以上の人員を動員し、421カ所に及ぶ検問所を設置した[1]。趙の再犯を許した場合、河南省の指導部の責任が問われる恐れがあったことから、検問所に配置された要員に対して、疑わしい行動があった場合は直ちに発砲し殺害するよう指示が下された[1]。この結果、多数の誤射事件が発生することになった[1]

12日には、大榭岗検問所に配置されていた武装警察官が、停止指示に従わなかった7-8台程度のトラックに対して次々に発砲し、うち1台の運転席に命中、運転手に重傷を負わせる事件が発生した[1]。また13日にも、老鹳河検問所に配置されていた武装警察官が、やはり停止指示を見逃したトラックに対し発砲し、運転手を射殺する事件が発生した[1]。この他、少なくとも更に1人の運転手が撃たれて負傷した[1]

趙は事件当日のうちにすでに南陽市へ、また16日には済源県へ逃亡していた[1]。趙は、9日には電話で、また13日には手紙で、南陽市にいることを友人に知らせており、彼らはそれを直ちに警察に通報したものの、警察はいずれも偽情報であると判断し、趙はまだ県内にいるものと考えていた[1]。17日に平頂山市からの手紙が届いたとき、やっと、趙が県外に逃亡したことを認識した[1]

洛陽黄河公路大橋での銃撃戦

脚注

参考文献

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