文政9年(1826年)11月2日、備前国上道郡(岡山県岡山市東区沼)に五代目津下古庵の長男として生まれた[1]。
天保5年(1834年)2月、岡山油町沼本寿庵に入門し、来吉と改めた[2]。なお、津下家は百姓身分であり、表向き医術の世襲は禁じられていたため、規定通り病気で農作業ができないことを理由に届け出ている[3]。弘化元年(1844年)寿庵の死後、次代沼本貞玄に学び[2]、嘉永2年(1849年)2月実家に戻った[3]。
安政5年(1858年)7月22日大坂で緒方洪庵に入門した[3]。文久2年(1862年)緒方洪庵、石井宗謙等と中国・四国地方を旅し、4月16日精斎実家に立ち寄り、洪庵は沼村名主内藤弥八郎、泰蔵を診察し、それぞれ心気症・痔血、胃病と診断した[3]。21日足守で母の米寿を祝った際、精斎は坊主頭に鉢巻でタコ踊りを披露したという[2]。帰坂後8月緒方洪庵は江戸幕府に奥医師として迎えられ、精斎も帰藩した。
東北戦争に従軍したといい[1]、当時幕府医官だった弟島村鼎甫との関係とも考えられるが、詳細不明[2]。
明治2年(1869年)12月8日御郡医者格、明治3年(1870年)4月17日医学館入学を命じられ、25日子竹五郎と入学した[3]。5月17日教授方試補、7月30日御雇二等教頭兼副直[3]。11月9日修身給を与えられ、士族、員外医学館出仕、病院治療方[3]。
この頃の住所は岡山市東中山下[2]。
晩年は書画骨董に没頭し[1]、また難波抱節に学んだ都々逸の普及に努めた[2]。1899年(明治32年)8月4日死去し、塔の山に葬られた[1][4]。戒名は宝州院鉄架精斎居士[1]。
生前、自らの死因を脳卒中か中風と予想し、予め辞世「酒の相手の千人よりも心涙の友ひとり」「花の嵐の頓生菩提あした待たるる身ではない」を用意したが、実際の死因は胃癌だった[2]。