文武朝の大宝2年(702年)の御野国戸籍に、御野国大掾務従七位上津嶋連堅石とある。
慶雲3年(706年)遣新羅使の使節が任命され、美努浄麻呂が大使に、堅石が副使となる。同年11月に作成された新羅王・聖徳王への勅書の中で、大使の従五位下の浄麻呂ともに「副使従六位下対馬連堅石」を派遣する旨が記されている[3]。記録にはないが、浄麻呂とともに新羅へ渡り、翌慶雲4年(707年)5月に帰国したと想定される。
その後、時期は不明だが、連姓から朝臣姓に改姓し、元明朝の和銅元年(708年)従五位下に叙爵している。