津川義冬
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将
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生涯
最初は織田信長に仕えたが、器量を見込まれて信長の次男・信雄の家老に任じられた[2]。妻は北畠具教の娘で、信雄の妻の姉にあたる(『織田家雑録』、『寛政重修諸家譜』)。
天正4年(1576年)の三瀬の変では田丸城において土方雄久・日置大膳亮らと共に長野具藤・北畠親成ら北畠一族を討ち取っている(『勢州軍記』)。天正10年(1582年)、本能寺の変後、松ヶ島城を預けられ、南方の奉行とされる(『勢州軍記』)。同年1月13日、大坂での津田宗及の茶会に出席している。
信雄が羽柴秀吉と対立するようになると、秀吉は義冬・岡田重孝・浅井長時ら信雄の有力家臣が羽柴秀吉に寝返ったという流言を流し、この情報を信じた信雄によって長島城で土方雄久により3人とも殺害された。秀吉は義冬らの殺害を契機に小牧・長久手の戦いで信雄と干戈を交えることとなる。