日置大膳亮
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日置大膳亮は北畠氏の家臣で北畠具教に仕えた。北畠家内で寺社奉行を務めた[1]。
永禄12年(1569年)、織田信長が北畠氏討伐のため南伊勢に侵攻した。この時、大膳亮は居城の細首城に放火し、北畠氏の居城・大河内城に入城し、織田軍に備えた(大河内城の戦い)。池田恒興が大河内城に攻撃を仕掛けた際、大膳亮と家城之清が防戦し、手柄を立てた。また、丹羽長秀・池田恒興・稲葉良通が夜襲してきた際、大膳亮、安保大蔵少輔、之清、長野左京亮らとともに防戦し、手柄を挙げた。その後、織田氏と北畠氏の間で和睦が成立し、大膳亮は教具の養子となった織田信雄の家臣となった[2]。
天正4年(1576年)、織田信長、信雄が北畠氏を滅ぼそうと画策した(三瀬の変)。大膳亮は日置大膳亮・土方雄久・森雄秀・津田一安・足助十兵衛尉・立木久内らとともに田丸城で長野具藤・北畠親成・坂内具義・坂内千松丸・波瀬具祐・岩内光安らを殺害した[2]。
天正5年(1577年)春、北畠氏の生き残りであった北畠具親が鳥尾屋右近将監、家城之清、峯、乙栗栖ら諸豪族とともに蜂起した。まず、川俣谷滝野有間野村の軍が、信雄に敵対し、鉄中に城を築いて中央に打って出ようとした。信雄は滝川雄利、天野佐左衛門尉、田丸直昌、大膳亮に命じてこれを攻めた。この戦いで大膳亮・雄利らが各々傷を負ったという。その後、川俣谷滝野有間野村の軍と和睦して城を明渡して兵を引いた[2]。また、大膳の弟・日置次太夫が大将となり滝野・山副を攻め落とした。その後、河股谷、波瀬の峯らの鎮圧を日置兄弟が行った[2]。まず、次太夫が1~2日の間に閼伽樋城・九曲城の両城を落とした。その後、大膳亮・次太夫兄弟が先陣となり、秋山氏や本田氏らの援軍ともに峯城を攻めた。峯某は峯城で防戦したが、城中で討ち死にした。また、峯某の弟・乙栗栖二人が生け捕りにされた。その後まもなく、峯城は落城した。その後、日置兄弟は加勢に来た軍勢とともに鳥屋尾右近将監の富永城に攻め寄せ、攻め落とした。そして、具親、之清が籠城していた森城に攻め寄せ、森城を攻め落とした。具親は森城を落ち、安芸国の毛利家・足利義昭を頼り備後国鞆の浦に居住したという。また、之清も森城から落ち、河股山に隠れた。しかし、追手に見つかり、之清は多勢と渡り合って終に討ち死にした[2]。同年12月、津田一安がその親族を養い扶助すると言ったことを柘植保重、滝川雄利に讒言されたため、信雄は一安の粛清を決めた。一安を田丸城の普請として田丸城に呼び出したところを大膳亮に暗殺させた[2]。その後、日置は河股谷を制圧し城を七日市に作って、これを守った。元々河股谷は東門院の領地で、大和国に属していた。しかし、大膳亮が制圧したことで、『勢州軍記』が執筆されたころには伊勢国となっていた[2]。
天正7年(1579年)、織田信雄が伊賀を攻めた際(第一次天正伊賀の乱)、大膳亮は柘植保重らとともに馬野口から進軍した。しかし、信雄軍は伊賀衆のゲリラ戦により、敗北を繰り返し、撤退した。この時、大膳亮は保重とともに馬野口での殿を務めた。保重は鬼瘤峠の戦いで戦死したが、大膳亮は生還した[2]。
天正10年(1582年)6月、本能寺の変が起こると、北畠具親が伊勢に戻り、第三次天正伊賀の乱と呼応して、五箇篠山城で反乱を起こした。天正11年(1583年)正月、大膳亮は織田信雄の命で津川義冬に従って、田丸中書、本田左京亮らとともに具親討伐に向かった。この攻撃で五箇篠山城は落城し、具親は伊賀に逃亡した[2]。
天正12年(1584年)、織田信雄、徳川家康と豊臣秀吉が対立し、小牧・長久手の戦いに発展した。大膳亮はこの時、滝川雄利とともに松ヶ島城を守備した。3月15日、豊臣秀長、筒井順慶、織田信包、九鬼嘉隆、藤堂高虎らが率いる豊臣軍が松ヶ島城を取り囲んだ。数日後、大膳亮は豊臣軍のすきをついて筒井順慶の軍に攻撃し、武功を挙げた[2]。その後、4月下旬、雄利と秀長の間に和睦が成立し、雄利は松ヶ島城を明け渡し、浜田城に移って籠城した[2]。