津村信夫
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法学博士・津村秀松を父として、兵庫県神戸市葺合区に生まれる。官僚・小山健三は祖父。神戸一中を卒業して慶應義塾大学経済学部に入学し以後は東京に住む。慶大予科に在学中に肋膜炎にかかり、1927年(昭和2年)10月、鎌倉・坂ノ下の旅館海月楼に滞在して予後を養う。翌年3月にかけてしばしば訪れる[1]。療養期間中に文学への素養を深めた[2]。1930年(昭和5年)に白鳥省吾が主宰する文芸誌『地上楽園』の同人に加わり、それに詩作を発表するようになる。室生犀星に師事し、生涯にわたってその指導と愛顧を受ける[2]。1931年(昭和6年)に植村敏夫、中村地平、兄の秀夫と同人雑誌『四人』をおこし、そのことを相談した山岸外史とも相識ることになる。
1934年(昭和9年)に慶大卒業と同時に東京海上火災に勤務し、同じ年に詩誌『四季』が創刊されると立原道造とともに参加する。1935年(昭和10年)、第一詩集『愛する神の歌』を自費出版。1939年(昭和14年)に父を失い、神奈川県大船町に移住した。1941年(昭和16年)7月、北鎌倉の禅居庵内の借家に移る[3]。鎌倉ペンクラブの関係で林房雄、佐藤正彰と交流し、佐藤とは親しくなった[3]。
1942年(昭和17年)ころから健康を害し、1943年(昭和18年)9月に主治医よりアディスン氏病との診断を受ける[3]。12月、浄智寺裏に新居を買い求めて移転する[3]。佐藤正彰の家と向かいあわせだった[4]。東京築地の大東亜病院(現・聖路加病院)に入院、1944年(昭和19年)3月13日に退院。北鎌倉の海が見たいといって自宅に帰る[5]。その後の自宅療養中に病状が悪化して[6]6月27日に自宅で死去[4][5]。28日に火葬、29日に浄智寺本堂で本葬[4]。丸山薫が葬儀委員長をつとめ、30日の告別式で弔詩「君去ったあと」を読む[4]。神西清も参列し[4]、室生犀星は弔辞を読む[4]。
作風・評価
師の室生犀星は生前ほとんど津村の原稿を読むことはなかったが、その死後になって自分の影響と言うよりは同世代の「丸山薫の緊密なものを取り入れていたこと」を確認している[7]。詩人・辻征夫によると津村が丸山薫を通して昭和初期のモダニズム運動から受けついだものは「物象の具体性」というもので、このことを長江道太郎は「散文精神にもとづく知的リリシズム」と呼んだ[8]。
| 「 | 指呼すれば、国境はひとすぢの白い流れ/高原を走る夏期電車の窓で/貴女は小さな扇をひらいた 「小扇」 第一詩集『愛する神の歌』より、1935年 | 」 |
などの作品は、安西冬衛や北川冬彦の短詩の延長線上にあるものだが、この爽やかな抒情はかつての短詩にはないものだった[9]。
辻征夫は津村を知る坪井良平・三好達治・桑原武夫・田中克己などの証言を引いて、津村が近代以後の詩人群の中で際立っているのはその「幸福の相貌」においてであり、「いわば幸福ということがこの詩人の素質であり才能だった」と論じている[10]。第二詩集『父のゐる庭』は第一詩集よりも散文精神が濃厚であり、「強固な散文精神によってしか、詩を見いだしえない」時代にふさわしい、と辻は考えた[11]。
